ギュンター・グラスが落ちた、歴史リスクの罠    熊谷 徹

「ブリキの太鼓」、「蝸牛の日記から」などで日本でも知られる、ドイツのノーベル賞作家ギュンター・グラス(七八歳)が、今年八月に行った告白は、全世界に衝撃を与えた。彼は「Beim Hauten der Zwiebel(玉ねぎを剥きながら)」という自伝の中で、一七歳の時にナチスのヴァッフェン・SS(武装親衛隊)に所属していたことを明らかにしたのである。

グラスは、これまで講演などで、ティーンエージャーの頃、思想教育や宣伝映画に影響されて、ナチスの思想に傾倒していたことは、何度も語っていた。そして、「戦時中は、高射砲部隊の補助員になり、後に兵士になった」と話していたが、その部隊が武装親衛隊だったことは、戦後六0年間にわたり隠していたのである。

この告白は、文学ファンだけでなく、ドイツ社会、政界、そして周辺国で大きな論争を巻き起こした。日本でも、告白の事実については報道されたものの、なぜ激しい論争が起きているのかについては、十分解説されていない。だがグラスの発言は、この国の「歴史との対決」にも影響を及ぼすと見られるので、論争の背景について詳しくお伝えしたい。

* なぜ武装親衛隊に所属したのか

グラスは、一九二七年にダンチヒ(現在はポーランド領のグダンスク)に生まれ、小さな食料品店を営む両親と妹とともに、狭い二部屋のアパートで少年時代を過ごした。暮らしは楽ではなく、両親はグラスに自転車を買うこともできなかった。グラスは、しばしば客の借金取立てに行かされている。

一九三七年、つまり一0歳の時に、グラスはナチスの少年団であるヒトラー・ユーゲントの下部組織、ユングフォルク(小国民団)に加盟する。ナチスは、娯楽が少なかった当時、少年たちをハイキングやテントでの野外合宿、キャンプファイアーなどの活動に積極的に参加させた。子どもたちは、家庭から逃れる解放感を味わっただけでなく、「民族共同体」としての連帯意識を、幼い頃から植えつけられたのである。

グラス自身、小国民団での体験を楽しく思ったことを述懐している。このこと自体は、グラスがナチス思想によって、特に強く蝕まれていたことを示すものではなく、当時のドイツで少年時代を過ごした世代にとっては、ごく当たり前の感想だった。

海岸に配置された八八ミリ高射砲部隊での訓練は、グラス少年にとって苦痛ではなく、単調な学校生活からの解放を意味した。彼は一五歳の時に、潜水艦部隊に志願するが、当時もはや新しい乗組員は募集されていなかったため、軍国少年の願いは叶えられなかった。

グラスは、召集されてもいないのに軍務を志願した理由として、貧しい家庭の屈辱から脱出したかったという願望を挙げている。二部屋のアパートでの、家族四人での暮らしは、思春期を迎えつつあったグラスにとって苦痛だった。家族専用のトイレはなく、グラス家は他の三世帯の家族と、踊り場にある一個の洗面所を共同で使っていた。

さらに、彼はニュース映画で、敵艦を次々と沈めるUボート部隊、北アフリカの砂漠で英軍と死闘を繰り広げる、ロンメルの戦車部隊などの映像に魅せられたことを、告白している。

Uボートの乗組員にはなれなかったグラス少年だが、彼の名前と住所は軍に登録され、一九四四年の末、グラス家に突然軍からの召集令状が舞い込む。ドレスデンの軍事務所に出頭した時に、彼は自分の部隊が、武装親衛隊の第十SS戦車師団「フルンズベルク」であることを知った。

武装親衛隊は、親衛隊長官ヒムラーの指揮下の戦闘部隊で、国防軍とともに前線で戦うことを主な任務にしていた。一般的に装備や武器は国防軍よりも優れており、終戦時には九一万人もの兵力を抱えていた。

開戦当初は完全な志願制で、熱狂的なナチ党員の比率が多く、脇の下に血液型の入れ墨を施す独特の規則があった。だが一九四四年末には、戦局が悪化して人員の消耗が激しかったため、戦力を補充するために、グラスのように召集される兵士もいたのである。彼は脇の下に入れ墨を施される時間もなかった。


グラスは、当時武装親衛隊について、激戦地に投入されるエリート部隊としか考えておらず、ナチスの犯罪の象徴とは感じなかったと述べている。

確かに武装親衛隊は、強制収容所で多数のユダヤ人を殺害した、親衛隊の「帝国保安主要局(RSHA)」や、その指揮下で虐殺を専門に行った特務部隊(アインザッツ・グルッペ)とは異なる存在である。グラスが属した第十SS戦車師団は、一九四三年に創設された比較的新しい部隊で、ノルマンディーやアルンヘムで連合軍と戦っているが、住民や捕虜の虐殺などを行ったという記録もない。

しかし、武装親衛隊が親衛隊の一部であることには、変わりはない。中には、残虐行為に加担した部隊もある。

たとえば第二
SS戦車師団「ダス・ライヒ」は、フランスのオラドゥールでパルチザンに対する報復として、村人約六四0人を虐殺したり、ユーゴスラビアのパンチェボで住民三六人を処刑したりしているほか、第一SS戦車師団は一九四四年のアルデンヌ攻勢で、米軍の捕虜約七0人を射殺した。また、第三SS戦車師団の創設時のメンバーには、強制収容所の警護を行っていた「髑髏部隊」の隊員が多く含まれている。

私は一九九三年に、武装親衛隊の戦車部隊に所属していた老人と、話したことがある。彼は「ドイツがソ連を攻撃したのは正しかった」と断言し、ソ連側に一000万人を超える死者を出した侵略戦争を正当化するなど、ナチスの思想を今も抱き続けていた。

一九八五年に当時のコール首相とレーガン大統領が、旧西ドイツのビットブルクで、兵士の共同墓地を訪問したが、そこに武装親衛隊の兵士四九人が埋葬されていたことがわかった。このため、ドイツだけでなくヨーロッパ全体で、コール氏に対する批判の声が上がった。特に被害者にとっては、武装親衛隊は今もナチスの犯罪を象徴する組織なのである。

グラスは戦車兵になる予定だったが、前線で供与された最新式の駆逐戦車を扱えるだけの訓練を受けていなかったため、銃を渡されて歩兵として戦わされた。彼の部隊は、ドイツ東部でソ連軍の進撃を食い止める任務を負わされ、グラスは何度も九死に一生を得るような体験をしている。彼は、敵に向けて銃を撃ったことは一度もないと主張している。

一九四五年の四月に、敵の砲撃によって負傷したグラスは後送され、マリエンバートの野戦病院で米軍の捕虜となる。軍務記録などによると、彼が武装親衛隊に所属していたのは、宣誓前の訓練期間も含めると、一九四四年の十月からの、約五ヶ月ということになる。

* 六0年の沈黙に対する批判の嵐

さてドイツでは、グラスが戦後約六0年間にわたって、武装親衛隊所属の事実を隠してきたことについて、強い批判の声が上がった。彼は、自伝出版に先立ち、八月十二日付けのフランクフルター・アルゲマイネ紙に掲載されたインタビューの中で、「長年にわたり、この事実について沈黙してしまったことが、この本を書いた理由の一つだ。もう黙っているわけにはいかなかった」と述べている。

また自伝の中では、戦後六0年間にわたってこの事実を隠してきた理由について、武装親衛隊にいたことを恥ずかしいと思ったためと説明している。さらに、少年時代にナチスの犯罪性を知らなかったとはいえ、数百万人を殺害した国家体制に、結果として従属してしまったことで、自分にも責任の一端があると自己批判している。

一九五九年に発表した「ブリキの太鼓」で世界的な名声を獲得したグラスは、政治問題について積極的に発言してきた。ドイツでグラスに対して、激しい批判が巻き起こった理由は、彼が「行動派知識人」として、政治家や市民に対して、ナチスの過去と正直に向き合うことを求めていたにもかかわらず、自分の過去については六0年間にわたり隠していたことである。彼は、「ドイツの過去との対決は、十分ではない」と常に主張してきた。

グラスは一時社会民主党(SPD)に属して、ブラント首相の「東方政策」を積極的に支援。一九八五年に当時のコール首相がレーガン大統領とともに、武装親衛隊員も埋葬されている墓地を訪れた時には、グラスは「歴史の歪曲はやめろ」とコールを厳しく批判した。またベルリンの壁が崩壊した直後には、「アウシュビッツに象徴される民族虐殺という犯罪は、ドイツが統一されていた時に引き起こされた」と述べ、ナチスの過去を理由に、ドイツ統一に懐疑的な姿勢を示し、波紋を呼んだ。作品の中でも、戦争の悲劇を繰り返し取り上げたグラスは、多くのドイツ人にとって「リベラリズムの旗手」であり、周辺諸国でも「戦後西ドイツの良心」と見られてきた。

それだけに保守派の論客は、今回の告白をきっかけに、グラスに集中砲火を浴びせている。ヒトラーに関する伝記で知られる評論家J・フェストは、「グラスはもはや信じられない。潜水艦部隊に志願したのに、武装親衛隊に召集されたというのも、怪しい」と述べ、グラスの信用性に傷がついたと主張した。

また、過去との対決について批判的な作家M・ヴァルザーも、「ドイツの知識人の中で最も積極的に発言する作家であるグラスが、武装親衛隊に入れられたことを、六0年間にわたり黙っていた。このことは、ドイツの過去との対決にとって、破滅的な意味を持っている」と厳しく糾弾した。

メルケル首相も、八月末の記者会見で「これまで彼の経歴が、不完全な形で私たちに伝えられていたことは残念だ」と述べ、グラスが批判されるのは無理もないという姿勢を示した。キリスト教民主同盟(CDU)で文化政策を担当するW・ベルンゼン議員に至っては、グラスに対してノーベル文学賞を返還することまで求めている。

スウェーデンのノーベル財団は、一度与えられた賞が取り消されたことはないとしている。だが一九九九年の時点で、武装親衛隊所属の事実がわかっていたら、ノーベル財団がグラスに文学賞を授与したかどうかは、微妙である。

* グラスの信用性に深い傷

特に強い戸惑いを見せているのは、これまでグラスに共感を抱いていた、リベラル層である。過去との対決に関するボランティア団体「償いの証」(ASF)のC・シュタッファ代表は、私とのインタビューの中で、失望感を強く表わした。

「グラスが六0年間もこの事実を黙っていたことに、ショックを受けた。特に彼は、過去との対決について、道徳的な立場から強い口調で発言してきたから、今回の発表で信用性に傷がつくだろう。彼がこの事実をもっと早く明らかにしていれば、名声には大して傷がつかず、むしろその発言に説得力が増していただろう」。

 国際アウシュビッツ委員会のC・ホイプナー副委員長も、「グラスは社会の先頭に立って、過去との対決を推し進めてきた人物。それだけに、彼が今になってこの告白を行ったことには、失望している。彼のこれまでの功績が全て水の泡になるわけではないが、過去との対決を批判する勢力に、攻撃材料を与えることになった」と残念がる。

左派系の新聞・ターゲスツァイトゥングのK・ヒレンブラントは、「グラスは戦後西ドイツで過去との対決について、ベンチマーク(模範となる基準)を打ち立てた作家。彼は武装親衛隊にいたことを、六0年間隠したことで、我々をだまし、自らこの基準を傷つけた。もはや、彼の言うことは信用できない」とグラスを厳しく批判している。グラスが事実を告白した勇気を称え、彼を弁護する作家もいるが、ドイツでは少数派である。

「グラスは、本の売れ行きを伸ばすために、この告白をしたのではないか」と疑う人もいる。「玉ねぎを剥きながら」は、九月一日に発売されることになっていたが、彼が新聞とのインタビューで武装親衛隊所属の事実を明らかにして、社会の関心が急激に高まったため、本は予定よりも2週間早く書店に並んだ。

すると最初の二日間で約一五万部が売れ、自伝はベストセラー・リストのトップに踊り上がった。ドイツ・ユダヤ人中央評議会のC・クノープロッホ会長は、「一種の宣伝キャンペーンなのではないか」と眉をひそめる。

ナチスに弾圧された被害者たちも、強い衝撃を受けた。第二次世界大戦で六00万人の死者を出したポーランドでは、グラスの告白について強い困惑が広がっている。グラスは、一九九三年に生地グダンスク市から名誉市民の称号を受けている。

この町で自主管理労組「連帯」を率い、後に大統領になったレフ・ワレサ氏は、一時グラスに対して、名誉市民の称号を自主的に返還するよう求めていた。(彼は後にこの要求を取り下げた)

夫を強制収容所に送られた経験を持つグダンスク在住のポーランド人、ヘレナ・レンジョンさんは私とのインタビューで、「グラスが武装親衛隊にいたことがわかっていたら、グダンスク市は彼に名誉市民の称号を与えなかっただろう。

武装親衛隊は、私たちにとってナチスの犯罪のシンボルだからだ。彼が六0年もこのことを隠していたことには、がっかりした。」と語る。また、グダンスク郊外にある、シュトゥットホーフ強制収容所の追悼施設の副館長だった、エドムント・ベンタさんも、「グラスは、私たちの町を何度も訪れ、ドイツとポーランドの関係改善に大きく貢献した重要な人物。

それだけに失望も大きい。グダンスク市民の間では、グラスの過ちを許そうという人々と、名誉市民の称号を剥奪するべきだという人々との間で、激しい議論が行われている。」と述べた。少年時代にポーランドでナチスに迫害された経験を持つ、ユダヤ系アメリカ人作家、ルイス・ビーグレーは、「グラスが六0年間にわたり嘘をつき続け、自伝の見本が配布されてからようやく告白を行ったことは、道徳心の欠如を意味する」と批判する。

現在保守派の首相が率いるポーランド政府と、ドイツ政府の間には、敗戦までドイツ帝国領だったポーランド西部(シレジア地方)から、多数のドイツ市民が追放されて財産を失ったり死亡したりした問題をめぐり、再び緊迫した空気が漂っている。ポーランドでは、今年十月に地方自治体選挙が行われるが、ドイツに対して厳しい態度を取る保守勢力と、親ドイツ派が多いリベラル勢力との間で、「グラス問題」が選挙戦の争点となりつつある。

* ユダヤ人移送を知らなかったのか

グラスは、戦後ニュルンベルク裁判で、ヒトラー・ユーゲントの隊長が、ユダヤ人殲滅計画の存在について証言するまで、ナチスの犯罪性に気づかなかったと語る。だが同時に彼は自伝の中で、宗教上の理由から、軍事教練で銃を手にすることを拒否した若者が突然兵舎からいなくなった時、友人たちが「あんな奴は強制収容所に送られて当然だ」と語るのを聞いている。

人々は、グダンスク郊外にあった強制収容所シュトゥットホーフが、体制に批判的な人々が送られる「邪悪な場所」だったことを、知っていたのである。さらに、ドイツ軍がグダンスクを攻撃した時に、激しく抵抗した市民の一人だった叔父が、降伏後ナチスに射殺されたことも自伝に記している。親衛隊の統計によると、一九三0年代のグダンスクには、約一万人のユダヤ人が住んでいた。

グラスが武装親衛隊に召集された一九四四年までには、ユダヤ人だけでなく、市会議員や、大学教授など知識階級に属するポーランド人の多くが、強制収容所に送られていた。当時一七歳だったグラスは、その事実を全く知らなかったのだろうか?彼はこの点について、自伝の中で沈黙している。

NGO「償いの証」のシュタッファ代表は、懐疑的である。「グラスの態度は、この時代を生きたドイツ人に典型的なものだ。彼らはユダヤ人らに対する弾圧を仮に知っていても、知らなかったと言い張る。ユダヤ人の移送が、当時の新聞で報じられたケースもある。それでも、多くのドイツ市民は、ナチスに心酔していため、犯罪的な側面を知りたくないという、心理的な防衛機制が働き、そうした記憶を排除してしまうのだ。」

* 歴史リスクが秘める破壊力

文学作品は、作家の経歴や人間性とは独立した存在である。このため、グラスが武装親衛隊に属していたことで、彼の作品の価値が減るわけではない。

しかし、「リベラリズムの旗手」としての、グラスのもう一つの顔については、別である。彼が行ってきた政治的な発言、過去との対決で果たしてきた役割は、大きく見直されることになるだろう。ドイツでは、ナチスを絶対悪とみなし、白か黒かをはっきりさせる思考形式が定着している。

過去との対決では、灰色決着はありえない。グラスは、歯に衣を着せぬ発言によって、こうした「一刀両断式」の過去との対決を、奨励してきた。その意味でグラスも、自分が部分的にその形成に関わってきた、「過去を心に刻む文化」によって、厳しい検証を受けることは避けられない。日本では「六0年も前のことだから、グラスの少年時代の過ちは、時効ではないか」という声も聞かれるが、この国の過去との対決には、時効という考え方はない。

たとえば、フランス文学の研究家としてドイツでは有名だったハンス・ロベルト・ヤウスは、一七歳で武装親衛隊に加わった事実を長年にわたり隠していたが、数年前にその事実が明らかになったため、学会や言論界で厳しく糾弾され、文学研究者としての名声はかすんでしまった。同じようにして、名声を失った知識人は、枚挙に暇もない。

戦時中に自分が加害者だった事実と直面する作業を、長年にわたり怠っていると、被害者から批判され、現在の生活、経済活動、外交関係などに思わぬ悪影響が及ぶ。これを私は「歴史リスク」と名づけている。戦後の西ドイツは、政治、教育、司法、経済など様々な分野で、この歴史リスクを減らす努力を続けてきた。終戦から時間が経てば経つほど、事実関係の確認が難しくなるため、歴史リスクは増大する。(本誌二00五年九月号の筆者論文参照)

ギュンター・グラスは、SS(親衛隊)の紋章のある軍服を着ていた事実を、半世紀以上隠したために、晩年になって偽善者と批判され、「過去との対決の旗手」としての名声に深い傷を受けた。彼が自伝によって過去を清算しようとした試みは不発に終わり、むしろ逆の効果を生んだようにすら見える。

このことは、歴史リスクが大きな破壊力を持っていること、そして戦争時代の過去が、いかに執拗につきまとうかを、我々に教えている。矛盾に満ちた作家グラスの経歴の中で、今後「戦後ドイツの良心」としての政治的発言や活動は輝きを失い、芸術家としての功績だけが、歴史に記録されることになるだろう。

筆者ホームページ http://www.tkumagai.de

中央公論 2006年11月号 (2006年10月10日発売)