「歴史リスク」と戦うドイツ・放置する日本     熊谷 徹


中央公論 2005年9月号掲載

1 はじめに

 

今年5月に中国で発生した大規模な反日デモの背景について、日本では様々な憶測が行われてきた。
確かに、異例の「政府公認デモ」の裏に、日本が国連安保理の常任理事国になることを阻止するという中国政府の狙いや、市民の政府に対する不満が反政府暴動につながらないように、反日デモを通じてガス抜きをするという、意図があった可能性は高い。

また中国の歴史教科書やマスコミの報道が、市民の反日感情を煽っていることも事実であろう。警官が日本の領事館への人々の攻撃を制止しなかったことや、この点について中国政府が謝罪しなかったことは、国際ルールに照らして言語道断であり、日本政府が強く抗議したことは正しい。

ただし、敗戦から60年目にあたる今年、重要な隣人である中国や韓国との関係が険悪の度を深めていることによって、日本の国益が大きく損なわれていることは、確かだ。中国に深く関与している日本企業は、いつ再発するかわからない反日キャンペーンに不安を抱き、わが国が国連安保理で常任理事国となる可能性も遠のきつつある。つまり日本にとって、歴史認識が摩擦をもたらすリスクは、高まる一方なのだ。

これに対し、日本と同様に第二次世界大戦で敗れたドイツは、ヨーロッパの運命共同体の一員として、周辺諸国から信頼される存在になっており、歴史リスクは、日本に比べてはるかに低い。ドイツ企業は欧州の至る所で活動しているが、今のところは、歴史認識を理由に、反独デモが起こることを懸念する必要はない。ヨーロッパから日本を見ている私には、敗戦から60年目の年を、周辺国との緊張の中に迎えた日本と、安定の中に迎えたドイツの違いが、目立つ。


ドイツは歴史認識をめぐり、半世紀をかけた理論武装と実践によって、周辺諸国から批判される理由を減らす努力を続けてきた。敗戦から60年目の今年、ドイツが他国からの批判に対抗できる、堅固な鎧をまとっているとすれば、日本は丸裸に近い状態だ。このように日本が「歴史リスク」を放置し、中国・韓国から批判される隙(すき)を作ってしまったのは、戦後外交と社会の大きな過ちである。日独の間に、歴史リスクをめぐって大きな格差が生じたのは、なぜだろうか。

2 生き延びる手段としての「過去との対決」

 

最近日本では、歴史認識をめぐる議論の中で、「戦後の西ドイツは、全ての責任をナチスに負わせ、一線を画することに成功したが、日本の場合は戦前・戦中の社会からの継続性が強いのだから、単純に比較することはできない。日本はドイツと違ってジェノサイド(民族虐殺)を試みたのではないから、次元が違う」という意見をよく聞く。15年前からドイツに住んで、歴史認識問題について取材している私の考えでは、ドイツが戦後行ってきたことは、それほど単純に総括できるものではなく、ナチスの過去は現在のドイツにも、濃い影を落としている。


アウシュビッツ強制収容所がソ連軍によって解放されてから、60年目にあたる今年1月25日、ドイツ政府はベルリンで犠牲者を追悼する式典を催した。シュレーダー首相は、演説の中でこう語っている。「私は殺害された人々、そして地獄の収容所を生き延びた人々の前で、恥の感情を持つ。(中略)ドイツ人は、ナチズムとホロコーストの歴史を常に思い起こし、反ユダヤ主義と極右勢力に対抗する義務を持つ。今日ドイツに生きている市民の大部分は、ユダヤ人虐殺に直接の罪はないが、特別の責任を負っている」。さらに彼は、戦争と民族虐殺を記憶することは、ドイツ人のアイデンティティーの一部だと言い切った。

この言葉に表れているように、今日のドイツでは、今の世代には過去の蛮行について直接の罪はないとしながらも、ドイツの名の下におかされた犯罪を記憶し、被害者に対して謝罪し続けるべきだと考える人々が、社会の主流派となっている。首相や大統領、外相にとっては、エルサレムやワルシャワで、犠牲者を悼む施設を訪れて、謝罪の言葉を述べることは、忘れてはならない義務である。

ヴィリー・ブラント元首相は、1970年にワルシャワ・ゲットーの前でひざまずくことによって、ポーランドに対する謝罪の姿勢を強調したことで知られる。私は1989年6月に、ボンでブラント氏を歴史問題についてインタビューしたが、彼はワルシャワでの心境について、「私は、何百万人もの人々の虐殺に直接関与しなかったにせよ、この惨劇を引き起こしたドイツ人のために、自分も責任の一端を負うべきだと思い、その気持ちを表現するために、ひざまずいた」と述べている。

9カ国と国境を接している貿易立国ドイツにとって、ナチスの過去と対決することは、西欧諸国のコミュニティーの仲間入りをし、経済復興を実現する上で、不可欠であった。

EU(欧州連合)やNATO(北大西洋条約機構)などの国際機関に身を埋め、安定通貨マルクまで放棄して、周辺諸国との関係を深めてきたドイツは、かつて西欧に浸透していた「みにくいドイツ人」というイメージを払拭することに成功しつつあるようだ。

米国の市場調査機関ハリス・インターアクテイブが今年5月に発表した、ドイツ人像に関する調査によると、フランス人の回答者の70%、イタリア人の60%、英国の回答者の51%が「ドイツ人について良い印象を持っている」と答えている。特に半世紀前まで、度重なる戦争によって不倶戴天の敵だったフランス市民の大半が、好意的な意見を持っていることは、注目に値する。

私は、戦争中にナチスに対する抵抗運動に加わっていた、ギリシャ人と会ったことがある。彼はゲシュタポに追われていたため、あちこちの隠れ家を転々としており、同志を殺害されるなどの経験を持っていた。だが戦争から半世紀を経て、彼はアテネの企業の社長として、ドイツ人と貿易を行っていた。「50年前にはドイツ人と夕食の席で談笑することなど、考えられなかったが、今では憎しみは持っていない」。

だが、戦争中の蛮行にもかかわらず、ドイツ人が現在周りの国々から、一定の信頼を受けている理由は、政治家が繰り返し謝罪の言葉を述べてきたことだけではない。官民が一体となり、経済、司法、教育など、様々な次元で実践してきた、信頼醸成のための措置も見落とすことはできない。特に重要なことは、ドイツが「被害者の視点」を常に重視してきたことである。いくつかの例をあげよう。

1)経済界の賠償

西ドイツ政府が、1952年のルクセンブルグ合意に基づき、イスラエル政府とユダヤ人賠償請求会議に対して、12年間にわたり、総額約35億マルクにのぼる賠償を行ったことは知られている。民間企業は、長い間賠償を拒否してきたが、経済グローバル化に伴い、歴史リスクを放置することは危険と判断した。

戦争中に強制収容所のユダヤ人らを工場で働かせたドイツ企業や、ナチスが没収したユダヤ人の資産を管理した金融機関など、ドイツの企業約6000社は、2000年に連邦政府とともに「
EVZ(記憶・責任・未来)連邦基金」を創設し、今年までの5年間に、ロシア、チェコ、イスラエルなどに住む強制労働の被害者162万人に対し、総額41億8400万ユーロ(約5648億円)の賠償金を支払った。

2)戦犯の追及

日本では、占領軍ではなく、わが国の司法当局が、外国での残虐行為を理由に、日本軍の将兵を戦犯として訴追したという例はほとんどない。これに対し、ドイツの司法は1964年にフランクフルトで行われたアウシュビッツ裁判を初めとして、残虐行為に加担した市民を訴追してきた。西ドイツが1979年に、計画性が強く悪質な殺人(Mord)について、時効を廃止した最大の理由は、ナチスの戦犯が生きている限り追及するという姿勢を全世界に示すためだった。

ドイツ政府は、1958年にルートヴィヒスブルクにナチス犯罪追及センターを設置し、専属の検察官たちに、42年間にわたりナチスの戦犯に関する予備捜査を行わせた。同センターが行った予備捜査に基づき、10万7000人の容疑者が検察庁の捜査の対象となり、6500人が有罪判決を受けた。その中には、戦後アルゼンチンに逃亡していたが、1992年に逮捕されて、終身刑に処せられた親衛隊員もいる。

同センターは2000年に連邦文書館の一部となり、ナチスの犯罪に関する170万点の文書が、10万冊のファイルに保管され、市民が閲覧できるようになっている。私は1989年に、ナチスが精神障害者を虐殺した事件について取材するために、このセンターを訪れたが、研究者や報道関係者に対する協力的な態度には、感心させられた。

3)教育


だが被害者や周辺諸国にとって、最も信頼感と安心感を生むのは、加害国だったドイツが、若い世代に対し自国の暗い歴史を包み隠さず、学校で詳しく教えたり、情報を提供したりしている点である。

今年5月、ドイツ政府はベルリンのブランデンブルグ門の近くに、ナチスに虐殺された600万人のユダヤ人を追悼する、モニュメントを完成させた。1万9000平方メートルの敷地に、棺を思わせる約2700個の黒い石板が並んでいる。

追悼施設に付属した部屋には、ユダヤ人の少女が、ナチスに殺害される前に、米国に住む父親に書き送った、別れの手紙が保存されている。日本で言えば銀座に相当する繁華街の目と鼻の先に、自国の犯罪を後世に伝えるための、巨大なモニュメントを作る国を、私は世界のどこにも知らない。

この他、ザクセンハウゼン、ベルゲン・ベルゼン、ブーヘンヴァルト、ダッハウ、ラーベンスブリュックなど、数多くの強制収容所の跡地が、追悼と学習のための施設として開放されている。さらに終戦直前に、親衛隊によって、収容所を追い出された囚人たちは、雪の中を歩かされ、飢えと寒さで次々に死んでいったが、この「死の行進」が行われた、国内の無数の道にも、慰霊碑が設置されている。

またベルリン西部のクアフュルステンダム大通りに面した繁華街には、「我々が決して忘れてはならない、恐怖の場所」としてアウシュビッツなど強制収容所の名前を記した、大きな「警告板」が立てられ、道行く人々を見下ろしている。日本でいえば、東京・新宿のような場所だ。

 しかし私に、ドイツの過去との対決への強い決意を、何よりも強く感じさせたのは、歴史教科書の内容である。大学時代に、ドイツからの帰国子女の家庭で家庭教師をした時、たまたまその家庭がドイツから持ち帰った歴史教科書を読んだ。

これらの教科書は、ナチスの時代について約100ページを割き、処刑される捕虜やガス室に送られる母子の写真、アウシュビッツ収容所長によるユダヤ人虐殺に関する詳細な証言などを使って、自国の犯罪について詳しく記述していた。そこでは、ドイツ人が加害者として欧州にもたらした被害が、強調されている。私が日本の中学・高校で使った教科書で、日本軍がアジアにもたらした被害について、あっさりとしか記述されていなかったのとは、大きな違いである。

1989年にはハンブルクのギムナジウムで、生徒たちが歴史の授業の中で、収容所で殺害されたユダヤ人の写真などを見ながら、ナチスの犯罪について、討論する模様を取材し、若者たちが自国の過去の犯罪と対決する様子を目の当たりにした。

ドイツ企業も、強制労働被害者に賠償金を出すだけではなく、情報開示も行っている。たとえばフォルクスワーゲン社は、著名な歴史家ハンス・モムゼン教授に依頼して、同社がナチス体制の中で果たした役割や、同社の工場での強制労働の実態について、1000ページを超える研究書を作成、出版させた。

企業が率先して、過去の汚れた部分を自ら曝け出すことによって、「歴史リスク」を減らそうとしているのである。

日本では韓国との間で、歴史の共同研究が始まっており、反日デモが起きてからは、中国との間でも歴史教科書について、協議する必要性がようやく指摘され始めた。西ドイツは、今から54年前の1951年に、国際教科書研究所を設置し、ポーランド、フランス、イスラエルなど10カ国を超える国々と、相互の歴史教科書の検証を行ってきた。

この研究所は、州政府と外務省が運営資金を出している公的な機関で、他国の歴史学者との会議の後、内容についての勧告を、教科書会社と各州の文部省に送る。私は1989年5月にドイツとポーランドの間の教科書会議の模様を取材したが、ナチスの被害を受けた国々が、ドイツの歴史教科書がナチスの問題を詳しく取り扱っていることを確認し、透明性を確保する上で、この会議が重要な役割を果たしていることを知った。


他国の教科書の内容が一方的で理不尽だと思えば、この場で歴史学者が問題点について話し合う。日本と中国の間のように、双方のマスコミを通じた議論よりも、冷静な話し合いを行うことができる。ドイツが半世紀以上も前に、教科書会議を始めたのは、彼らが歴史リスクを放置せず、能動的に取り組むことの必要性を意識していたからであろう。

アウシュビッツの生存者の組織「国際アウシュビッツ委員会」の副委員長を務める、クリストフ・ホイプナー氏は、ドイツ社会の現状をこう総括する。「西ドイツでも、敗戦直後は、自国の犠牲者を中心に考える傾向が強かったが、1960年代の末からは、被害者の立場が重視されるようになった。この国では今も学校の授業や、芸術を通じて過去と対決している人が、数多くいる。“過去を忘れてはならない”というコンセンサスは、社会の中で広く受け入れられている。我々の一挙手一投足は、今も外国の人々から観察されているが、ドイツは同時に信頼も寄せられていると思う」。

私はこの社会を15年間観察してきたが、歴史に関するコンセンサスは、大部分の市民に浸透していると思う。ナチスを批判的にとらえる教育は、軍隊や戦争への嫌悪にもつながっており、ドイツが、米国のイラク侵攻に強く反対した背景にも、この教育が培った平和思想がある。ブラント元首相は、私とのインタビューの中で、過去との対決の中で教育が持つ意味について、こう語った。

「若者たちは、前の世代が犯した罪について責任はない。しかし、彼らも歴史の流れから外へ出ることはできない。他国の人々がドイツをなぜ厳しく見るのかを知るためにも、歴史の暗い部分について、学ばなくてはならない。自国の歴史と批判的に取り組めば取り組むほど、他国との間に信頼関係を深めることができる」。

外国人としてドイツに住んでいる私にとっても、若者たちがこれほどの詳しさで、自国の犯罪について学んでいることは、安心感の源である。「新しい歴史教科書を作る会」の教科書のように、自国の加害行為をあっさりとしか記述しない教科書が現れたら、国外よりも、まず国内から強い反対の声が上がるだろう。

 

          歴史リスクとの戦いは終わらない

 

しかし、ドイツ人が行ってきた過去との対決は、いまだに十分ではないという意見もある。その理由は、1990年に統一を達成して以来、一部の市民の間で国家・民族意識が頭をもたげ始め、過去に関するいくつかのタブーが挑戦を受けているからである。

最も顕著な例は、作家マルティン・ヴァルザーが1998年にドイツ書籍業協会から平和賞を受けた際に行った講演である。

彼はこの中で「私はアウシュビッツとその悲惨さを否定するものではない。しかし、テレビで強制収容所の悲惨な映像を何度も見せられると、私は目をそむけたくなり、なぜこんなに何度も過去を見せられなくてはならないのかと、問いたくなる。(中略)犠牲者の追悼や、過去を記憶することがその目的ではなく、我々の犯罪を別の目的のために利用しているのではないかという気がしてくる」と述べ、過去を理由に批判され続けることへの不満を表明した。ヴァルザー氏が、この講演の内容に共鳴する人々から千通もの手紙を受け取ったことは、「これまで考えても口にできなかったことを、よくぞ言ってくれた」と感じた市民がいたことを示している。

統一後は、ドイツ人被害者論も急速に浮上している。戦争末期から戦後にかけて、現在チェコやポーランドの一部である地域から、1300万人のドイツ人が追放されて財産を失い、その内250万人がソ連軍や住民に殺害されたり、飢えや病気で死亡したりした事実は、ドイツ統一前には、他国への配慮から公に議論されることが少なかった。しかし、今では、この事実をタブー視せず、公に語る論客が大幅に増えた。

ノーベル賞作家ギュンター・グラースの「蟹の横這い」は、ドイツ西部へ逃げる途中に、ソ連の潜水艦に撃沈された難民輸送船の悲劇を扱っているし、ヴァルター・ケンポウスキーの大作「音響測深機」も、ドイツ人の難民たちが追放の過程でなめた辛酸を、日記や体験談によって詳しく叙述している。ドイツの書店に行くと、統一前に比べて、はるかに堂々と追放問題を扱った本が並べられていることに気がつく。

また、イェルク・フリードリヒは、連合軍がドイツの都市にもたらした空襲の被害について、「火災」という本を書き、一時ベストセラーリストに登場したが、この本も「ドイツ人被害者論」を代表する作品だ。ヴェスターマン社の歴史教科書「過去への旅」のドイツ統一後の改訂版では、統一前に比べて追放や空襲被害に関する記述が、大幅に増えている。

ドイツ・ユダヤ人中央評議会のシャルロッテ・クノープロッホ副会長は、2004年にザクセン州の州議会でネオナチ政党NPDが9・2%の得票率を記録し、議会入りしたことや、パレスチナ紛争との関連で、一部のドイツ人の間に、反ユダヤ主義が広まっていることとともに、ドイツ人被害者論の高まりに、強い懸念を抱いている。

「こうしたことが公に語られるきっかけを作ったのは、ヴァルザーとグラースだ。極右はドレスデン空襲をホロコーストと比較しているが、我々は若者たちに、こうした解釈が誤っていることを伝えないと、若者たちがドイツ人被害者論に関する本や極右のデマゴギーによって、誤った認識を持つ恐れがある。また、パレスチナでのイスラエルの政策をめぐって、ユダヤ人の子どもが学校で“人殺し”と呼ばれたり、ユダヤ教徒の服装をしていたユダヤ人がベルリンで襲われたりしたことは、反ユダヤ主義が頭をもたげていることを示している」。

クノープロッホ副会長など、著名なユダヤ人は、ネオナチから脅迫状を受け取ることが、日常茶飯事だ。以前このような脅迫状は匿名だったが、最近では本名と住所をはっきり書いてくる脅迫者が増えている。タブーが崩壊しつつある兆候であり、不気味だ。

1959年に創立されたキリスト教系のNGO「償いの証し」は、ドイツで最も積極的に過去との対決を行ってきたボランティア団体である。ドイツ人の若者のために、ポーランドの強制収容所でのボランティア活動や被害者との対話を企画したり、ポーランド、フランス、オランダ、イスラエルなどに、1万人近いドイツ人の若者をボランティアとして派遣し、高齢の被害者の介護など福祉活動を行ったりしてきた。

クリスティアン・シュタッファ代表は、ドイツほど自国の過去と積極的に取り組んできた国はなく、過去を記憶することは、国民的なアイデンティティーとなっていると評価する一方で、「我々も被害者だった」と口に出せなかったことは、長い間ドイツ人の心を傷つけてきたと指摘する。

そして彼は、ドイツ人被害者論を、歴史的に正しい文脈の中に位置づけることの重要性を強調した。「ドイツ人がなめた辛酸について語ることは、許されるべきだ。だが追放や空襲が行われる前に、ナチスが侵略戦争を始め、数百万人の人々を虐殺したことを、はっきり意識するべきだ。ドイツ人の被害を、ユダヤ人や周辺諸国の被害と同列視し、ドイツ人の加害行為の重みを相対化によって減らすことは、許されない」。

5月の時点で480万人の失業者を抱え、旧東ドイツを中心に経済状態の回復が見込めないこの国では、現体制に不満を抱く若者が、極右に誘惑され、反ユダヤ主義や外国人排斥に走る危険性が、常に存在する。その意味で、ドイツ社会は今なお「歴史リスク」を減らすための取り組みを、緩めることはできないのだ。

          日本の歴史認識と被害者の視点の欠如

ドイツ外務省の高官で、日本に勤務した経験を持つE氏から、こんなことを言われたことがある。「日本人は戦争の悲惨さというと、日本人の犠牲者のことを中心に考えて、日本が外国に与えた被害については、あまり考えていない」。

こうした見解に反発する日本人は多いかもしれない。しかし日本での歴史論争を見ていて、バランスが取れていないと感じるのは、一銭五厘の赤紙で召集されて、国を守るために熱帯のジャングルに送られ、十分な補給もないまま、飢えや疫病で死んでいった皇軍将兵の悲惨な運命がしばしばクローズアップされるのに比べて、アジア側の被害者との対話が十分に行われず、日本国民の大半にもアジアでの被害の実像が、伝わっていないことである。

ナチスが殺人工場を作って民族の抹殺を図ったのに対し、日本はそうしたことを行わなかったという違いは、日本が被害者について配慮しないで良いという理由にはならない。死者数などについて食い違いがあるとはいえ、中国大陸で、多数の民間人や、投降した後の捕虜が日本軍によって殺害されたことは、否定し得ない史実なのである。このバランスの欠如こそが、中国や韓国から批判される隙を生んでいる。


戦死者の遺族や、戦場に駆り出された人々が、靖国神社の境内にある軍事博物館「遊就館」の歴史観に固執する感情は、理解できる。だが、経済がグローバル化した今日、いわゆる先進国首脳会議に出席する国としては、遊就館だけでなく、周辺諸国の感情に配慮した内容の博物館や追悼施設を別に持つことも、必要である。首相が靖国神社に参拝したいのならば、バランスを取るために、そうした博物館や追悼施設をも公人として訪れることを義務づけるべきだ。

ドイツと日本の歴史との取り組みが最も異なる点も、正に被害者の視点の有無である。日常生活の中では、ドイツには極めて個人主義的で、他人の感情を思いやらない人が多く、逆に日本では、物腰が穏やかで、他者への思いやりが深い人が多いことを感じる。だが、こと歴史認識については、ドイツ社会と日本社会の姿勢は180度反対になっている。ドイツの過去をめぐる政府の式典では、必ずナチスの侵略や圧制による被害者が、スピーチを行う。

この国では、政府だけでなく、様々な組織が、ドイツ人の若者と被害者との対話をアレンジしてきた。被害者たちは当然ドイツ人にとって耳の痛いことも言うが、こうした場を設けることが、ドイツにとって「歴史リスク」を減らし、信頼感を醸成することにつながっている。被害者は、ドイツ人が耳を傾けようとしていることを理解するからである。日本では、こうした式典にアジアの被害者を出席させることは、考えられないことである。

自分の「恥」については、語ることを避け、死者を鞭打つことを好まず、「過去を水に流す」ことを好む我々日本人の国民性が原因だろうか。だがこの態度によって、わが国の歴史リスクは、確実に増えつつある。


ドイツ・ユダヤ人中央評議会のクノープロッホ副会長は、加害国の若者が、迫害を生き延びた証人と対話することの重要性を強調する。

「本や映画だけでは、ホロコーストの恐ろしさについて、ドイツの若者たちに本当に理解させることはできない。しかし、私のように迫害を生き延びた者が、ドイツの学校を訪れて若者たちと話をすると、彼らの考え方が変わることに気づく。迫害の体験者は今後どんどん減っていくので、若者たちがネオナチに誘惑されないように、何らかの手を打たなくてはならない」。

来年ミュンヘンの中心部にユダヤ人文化センターを開かれる背景には、ドイツ人とユダヤ人の対話を深めることによって、反ユダヤ主義に対抗するというクノープロッホ副会長の狙いがある。


NGO「償いの証し」のシュタッファ代表も、被害者との対話形式を、歴史との対決の中で重視してきた。

「空襲による被害など、自国民が戦争中に体験した苦しみについて語る際には、加害国の国民が孤立して、自分だけの文脈を作ってはならない。必ず、ロシア人、ポーランド人など被害者と対面し、ディスカッションという枠組みの中で行われるべきだ。ナチスの歴史が、今日的にどのような意味があるかを、独りではなく、対話の形で考えることが極めて重要である」。

アジアでは、正に日本や中国、韓国が、対面して討論をせずに孤立して、自国民の苦しみについて、自分だけの文脈を作っていることになる。こうした対話が行われない限り、日本の首相がいくら謝罪の談話を発表しても、相互理解は深まらない。


勿論、中国が民主国家でないことを考えると、そのような対話における証言者の選別には、細心の注意が必要である。しかし、アジアでも生き証人が急速に減りつつある今、政府間の非難の応酬だけではなく、加害国と被害国の被害者同士の対話という側面を重視することが、日本の歴史リスクを減らすための第一歩となるのではないだろうか。

重要なことは、自国の歴史を批判的に見る努力は、他国からの圧力ではなく、自ら始めなくてはならないということである。他人から、「自国の恥部と向き合え」と言われて、反発するのは、人情である。従って、こうした努力は自発的に行われない限り、成功しない。

ドイツの過去との対決が、部分的に成果を収めている最大の理由は、1960年代以降、ドイツ人がこうした努力を、自発的に行ってきたということだ。外国から強制されていたら、ドイツ人たちは、小泉首相のように「内政干渉だ」と反発してしまい、過去との対決が今日のレベルまで深まることはなかったであろう。


中国・韓国は、急速に成長する経済力を背景に、歴史認識をめぐって日本への風当たりを一段と強めている。わが国の政府にとっては、こうした状況で融和的な態度を示すと、国内世論から「周辺諸国からの圧力に屈した」と取られかねないので、過去と深く対決することが、いっそう難しくなっている。

したがって、わが国が、過去60年間に、自発的に歴史と対決する道を選ばず、歴史リスクの拡大を今日まで放置してきたことは、大きな不幸である。


だが中国や韓国との関係を改善することは、将来の日本を担う若い世代のためにも、重要な課題である。困難を伴っても、自発的に教育と被害者との対話という部分から、歴史リスクの削減を始めていく必要があるのではないだろうか。過去60年間にわたり、歴史リスクと戦ってきたドイツの努力を、遠い国の出来事として片づけるのは、想像力の貧困以外の何物でもない。

(写真は全て筆者撮影)
(中央公論ではページの関係で載せなかった部分も、ここでは含めてあります)