欧州のニューリーダーたち

EU(欧州連合)が拡大するにともない、米国やアジアと並んでヨーロッパのプレゼンスが高まりつつある。ドイツでは昨年末メルケル氏が初の女性首相として誕生し、政界に新風を吹き込んだが、他の主要国でもニューリーダーたちが権力の座をめざして、積極的に動き始めている。まず、欧州きっての好況にわく英国に目を向けてみよう。

ブレア首相は去年5月の総選挙で勝利を収め、労働党の首相としては初めて、三期連続で政権を担当するという輝かしい記録を達成した。第二次世界大戦後の英国で、総選挙を三回連続で勝った首相は、サッチャーを除けばブレアだけである。

彼がこの記録を達成する上で大きく貢献したのが、ゴードン・ブラウン財務大臣(55歳)である。彼は次期首相の最有力候補とみなされており、ブレアも「ブラウンは、この国が過去100年間に持った財務相の中で、最も優秀である」と賛辞を惜しまない。

その最大の理由は、ブラウンが1997年にブレア政権の財務相に就任して以来、英国経済が他の欧州諸国に比べて、はるかに好調であることだ。低成長に悩む欧州大陸から見ると、英国の経済パフォーマンスは驚異的ですらある。

欧州統計局の調べによると、2005年の英国の失業率はわずか4・6%で、EU平均(8・7%)を大幅に下回る。9・5%の失業率に苦しむドイツやフランスの政治家は、ただ羨むばかりだろう。また英国は2005年に、国民一人あたりのGDP(国内総生産)も2・7%増やし、EU平均(1・6%)、ドイツ(0・8%)、フランス(1・7%)に大きく水を開けた。

英国では、ブレア政権がイラク戦争に参戦し、米国のブッシュ政権を全面的に支持していることについて、国民の不満が高まっており、今回の選挙で野党との差が縮まる原因となった。つまり外交面で苦しい立場にあるブレアにとって、経済政策の成功を有権者に強調することが、勝利を収める上で切り札になったのだ。ブラウンは去年の選挙でキング・メーカーとしての役割を演じたのである。

1951年にスコットランドのグラスゴーで、牧師の子として生まれたブラウンは、ブレアと同じく1983年に国会議員に初当選した。従来の労働党とは一線を画し、中流階級の支持を増やすために、ブレアとともに党の政策の近代化のために邁進してきた。

ブラウンは1997年に財務相の座についてからわずか1週間後に、イングランド銀行に金利を決定する権利を与えて、政府からの独立性を高めることを発表し、経済界を驚かせた。この決定は、政府の規制や影響力を減らすという新しい労働党政権の基本方針を象徴するものであり、民間部門から歓迎され、英国経済の活性化に大きく役立った。

さらに彼は、保守党よりも大胆に財政支出を削減することによって、「税金を無駄遣いする労働党」という先入観を払拭することに成功した。「政府が借り入れをするのは、投資を行う時だけ」という鉄則(ゴールデン・ルールと呼ばれる)を確立したことでも知られる。

近い将来、彼がブレアの後継者として首相の座につくとすれば、過去200年間で最も長期間にわたり、安定した経済成長を達成し、失業率、物価上昇率、金利を低く抑えて、英国に未曾有の活況をもたらした功績が、評価されたと見ることができるだろう。

さて英国の政治ジャーナリストから、ブラウンは「謎に満ちた男」、「沈思黙考型で、本音を言わない秘密主義者」、「鉄面皮の大臣」、「自己中心的なワーカホリック」という評価を与えられている。

ブラウンの政治家としての信条は、「
prudence with purpose(目的を持った慎重さ)」だが、マスコミ受けするキャッチフレーズではない。2000年に独身主義を破って結婚してから、やや性格に丸みが出たといわれるが、テレビに登場する時には今も陰気でむっつりした印象を与え、ソフトで快活な印象を与えるブレアとは対照的である。

実際ブレアとの間で、政策に関する意見の相違が多いと言われているが、1997年以来、首相との対立を、絶対に公の場では見せず、側近や部下を通じてのみ外部に漏らすという手法を取ってきた。たとえば、ブレアが英国へのユーロ導入に比較的前向きであるのに対し、ブラウンははるかに消極的であり、英国の多数派の意見を代弁している。だが二人は決してユーロをめぐる意見の対立を先鋭化させなかった。このことは、ブレアとブラウンが、権力を維持する上でいかにお互いを重視しているかを象徴している。

去年5月の選挙前に労働党がテレビで放映させた選挙戦用の宣伝番組には、そのことがはっきり表われている。まず二人が経済政策について打ち合わせをする場面が映し出され、ブラウンが議員に当選した直後、ブレアと事務所を分かち合ったことを述懐するほか、一緒に朝食をとる様子も紹介される。

ブレアが「公共サービスにもっと投資しても良いと思う。問題は、投資をどう継続するかだ」と質問すると、ブラウンが「その鍵は経済成長だ」とすかさず答える。まるで大企業の社長と財務担当取締役のミーティング風景だ。国民に対し「労働党のドリーム・チームは健在です」というメッセージを必死で送ろうとしているのだ。

だがブラウンにとっては難題が山積している。ブレア政権の一期目には平均3・3%だった経済成長率は、二期目には2・3%に鈍化している。一期目の財政状況は対GDP比で1・6%の黒字を記録していたが、二期目には2・9%の赤字に転落。税収が減ったことが原因である。アナリストたちは、バブル的な上昇ぶりを見せた不動産価格が、近い将来急激に下降に転じる可能性があると警告している。首相の座を確実なものにするには、黄信号が灯り始めた経済状況の下支えに向けて、慎重な舵取りが必要だろう。

ブラウンは、経済・金融政策に集中してきたため、外交面での手腕は未知数である。ただ彼は2004年にG7諸国の中で最初に、アフリカなど発展途上国が抱える債務の部分的な免除に踏み切って、好調な経済状況を国際的な人道政策に反映させ、援助団体などから、高い評価を受けた。この決定は、ブラウンがブレアに比べると、伝統的な労働党員の性格を多く秘めていることを示しているのかもしれない。

そう考えると、彼が首相になった場合、親米派であるブレアとは一線を画して、混迷するイラク政策や対テロ戦争について、フランスやドイツに近い路線に修正する可能性もある。

労働党内には、ブレアが2009年頃までにブラウンに党首の座を譲るという観測もあり、英国のニューリーダーがEUでどのような役割を果たすか、外交手腕を見られる日も遠くはなさそうだ。

さてドーバー海峡を隔てたフランスでの、シラク大統領の後継者をめぐる争いは、英国よりも激しく、公然と行われている。来年5月に迫った大統領選挙で、エリゼー宮入りを狙ってデッドヒートを演じているのは、ドミニク・ドピルパン首相(52歳)とニコラス・サルコジ内務大臣(51歳)。ともにシラク大統領と同じ与党UMP(国民運動連合)に属し、シラクに重用された子飼いの部下だが、今では大統領レースのライバルとして、日に日に対立を深めている。

シラクは体調を崩しているだけでなく、9・5%という高い失業率に加え、去年EU憲法草案が国民投票で否決されたことで、指導力が著しく低下している。去年パリなどの大都市近郊で暴動が起きた際にも、シラクは2週間半にわたり、全く公式声明を出さず、市民の怒りを買った。事実上「レームダック(動けないアヒル=無力化した政治家のこと)」となりつつあるシラクは、自分に忠実な部下であるドピルパン首相を、後継者として望んでいる。

ドピルパンは、パリ大学、パリ大学院、そして上級公務員養成所であるENA(国立行政学院)を卒業して、1980年に外務省に入った典型的なエリート官僚。尊敬するナポレオンに関して長い伝記を書いているほか、詩作も行う。

米国のイラク侵攻直前には、外務大臣として、ブッシュ政権に敢然と反対。国連で戦争に反対する演説を行った際には、さえわたる弁舌とルックスの良さで、フランスだけでなく世界中の人々を魅了し、「文人外相」として勇名を馳せた。イラク戦争後も「鮫とかもめ」という本を発表し、米国のブッシュ政権を鮫に、フランスをかもめに喩えて、異なる価値観を持つ国々の和解の必要性を説いた。

元外交官ドピルパンのアキレス腱は、経済政策や社会政策の経験が乏しいことである。このため彼の政策は、恩師シラクの路線を、忠実に踏襲している。財政赤字と失業禍に苦しむフランスが、社会保障制度の見直しなど改革を必要とすることは認めながらも、あくまでも「大きな政府」を維持しながら、改革路線を進める。いわば苦い薬をオブラートに包んだソフト改革路線だ。

シラクと同じく、米国のような、純粋資本主義経済、自由放任主義とは一線を画し、「フランス式社会モデル」の維持をめざす。フランスでは国民の4分の1が公務員など、公共部門で働いているが、ドピルパンは、公共部門の大幅な削減には慎重な姿勢を崩さない。

これに対し、UMP党首でもあるサルコジ内相は、シラクやドピルパンのフランス式社会モデルはもはや時代遅れであり、大統領と首相の小手先の改革路線では、フランス病を治すことはできないという態度を取っている。彼はむしろ、公共部門で働く市民の数を減らし、公共支出を削減することによって、「小さな政府」をめざす。

サルコジは、今年1月に行った演説で、自分が大統領に就任した場合、フランス政府について戦後最も抜本的な機構改革を断行すると宣言。彼は、現在の大統領が議会にも姿を見せずに、日々の政治の現場から離れていることを批判し、大統領の任期を最長二期に限り、大統領が今よりも積極的に政局運営に関与するように、憲法を改正するという方針を明らかにした。

そして彼は「高い税金、大きな政府、雇用保護に基づくフランス型社会モデルは、破綻した」と述べて、15年間も大量失業問題が解決されていないことについて、間接的にシラク大統領を批判。フランスの政治家も英国のサッチャーやブレアのように、国益のためには国民に痛みを強いるような決断をする勇気を持つべきだと主張した。このスピーチは、来年に迫った大統領選挙を視野において、恩師シラクとドピルパンに対し事実上の「宣戦布告」をしたものと受け取られている。

父親がハンガリーからの移民、母親がユダヤ系フランス人であるサルコジは、29歳でパリ近郊の裕福な地域であるヌイイ・スュル・セーヌの市長に当選。2002年にラファラン内閣の内務大臣に就任した後、2004年には85%という驚異的な得票率で、UMPの党首に選ばれた。

これまで一度も選挙で国民に選ばれた経験がなく、党内に強固な地盤を持たないドピルパンとは対照的に、サルコジは叩き上げの政治家である。

去年発生した暴動の際には、車に放火する若者たちを「ラカイユ(人間のくず)」と公に罵り、アラブ系、アフリカ系市民の反発を買った。この発言に象徴されるように、治安対策では強硬的な手法を用い、非アラブ系フランス人の間では人気がある。

一方では、政教分離を定めた1905年施行の「世俗法」を改正して、政府がイスラム教寺院の建設を援助し、優秀でフランスに同化する移民については積極的に迎え入れるべきだという、柔軟な姿勢も示している。

フランスとオランダでの国民投票で否決されたEU憲法については、現在欧州各国の主要な政治家たちの間で、再生させるべきだという意見が強まっている。サルコジも例外ではなく、特にEUの意思決定プロセスなどに関する部分を、国民投票ではなく議会での承認によって批准するべきだと主張している。そして議会の承認が済むまでは、EU拡大を凍結するべきだという意見を持つ。

シラクは自分と袂を分かったサルコジについて、「耐え難い男だが、欠かすことができない」と述べたことがある。UMPおよび保守的な市民の間で、絶大な人気を持つサルコジは、今後もシラクとドピルパンの改革路線について「弱腰」として集中砲火を浴びせ、国民に痛みを伴う改革の必要性を、強調するだろう。ただしフランス人の過半数がEU憲法に「ノン」と答えた理由の一つは、人々が社会保障制度の大幅な削減や、経済グローバル化によって、産業の空洞化が進むことについて、強い不安を持っていることだ。この不安感に十分に配慮せず、ネオ・リベラル的な改革を強行した場合、サルコジへの支持率が低下する可能性もある。

去年9月にUMPが催した夏季セミナーで、AFPのカメラマンが撮影した一枚の写真がある。サルコジとドピルパンが、夏の日差しの下、朝食のテーブルをはさんで向かい合っている。サングラスをかけたサルコジは、自信に満ちた表情で、肩をすくめて両手を上に向け、「あなたは何を非常識なことを言っているのか」という感じのジェスチャーをしている。対するドピルパンは背中を丸めて口をすぼめ、硬い表情。政界では百戦錬磨のサルコジと、エリートコースを歩んできた貴公子ドピルパンの性格の違いを、浮き彫りにするショットである。

さて今年1月、ロシアがウクライナに対する天然ガスの供給を一時的に停止した時、ドイツなど西欧諸国でもガスの圧力が低下して、ロシアへのエネルギー依存度を高めることの危険を指摘する声が上がり始めた。ドイツのメルケル首相は、就任後初のロシア訪問で、プーチン大統領だけでなく、人権擁護団体の代表とも会うことによって、親ロ派だったシュレーダー氏とは異なり、ロシアに距離を置く姿勢を明確に示した。イラク戦争をめぐって米国に対抗するために、ドイツとロシアとともに一種の「枢軸」を築いたフランス政府は、ドイツの方針変更に戸惑っている。

ドピルパンが大統領に就任すれば、反米・親ロ路線が継続される公算が大だが、サルコジがエリゼー宮に入った場合、米国への強硬姿勢を改め、ドイツと歩調を合わせてロシアに距離を置き、シラク時代に関係が冷え切った東欧・中欧諸国との融和を図る可能性も強い。その意味でフランスのニューリーダーの競争は、ロシアや中東欧にとっても、重大な関心事なのである。

欧州の二大主要国が、新しい指導者を持つことによって、競争力がどう変化し、EU内の力関係がどう変わるのか。欧州連合の影響力が強まる中、われわれ日本人にとっても、今後数年間の両国の動きから、目を離すことはできない。

 

2006年4月号 デイリータイムズ