食料の放射能汚染・規制値をめぐりEUで激しい論争

 

 今年3月30日、ドイツ連邦食糧・農業・消費者保護省(以下消費者保護省とする)のアイグナー大臣はフランクフルト空港の税関を訪れ、日本からの輸入食料品に対する放射能検査の状況を視察した。3月26日に欧州連合(EU)加盟国は、福島第一原発の事故後に日本から輸入される食品について、放射能汚染の監視を強化する緊急指令を施行したのだ。

 EU指令297/2011号によると、日本を原産国とする食品は、今年6月30日までの間、次の3つの条件の1つを満たしていることを示す証明書なしにはEU圏内に輸入できなくなった。その条件とは、(1)3月11日よりも前に収穫もしくは加工されたこと、(2)原産地が福島、東京、千葉など東日本の12の都・県ではないこと、もしくは(3)原産地が福島など12の都・県である場合には、ヨウ素131、セシウム134と137の値がEUの規制値を上回らないことである。

 さらに日本からの輸入食品は、税関で抜き取り検査を受ける。税関は積荷の中の食品の最低10%について、放射能の線量をチェックしなくてはならない。アイグナー大臣は「まだ日本からの輸入食品から規制値を超える放射能は検出されていない。しかし福島第一原発で深刻な事態が長引けば長引くほど、放射能で汚染された食品が紛れ込む可能性も高まる。したがって、消費者を守るためにこうした予防措置を取ることは重要だ」と述べた。

 だがドイツへ輸入される日本食品は、輸入量全体に比べれば大海の一滴だ。毎年ドイツが輸入する農産物や食品の内、日本を原産国とするのは、トン数でわずか0・1%。農産物・食品の全輸入額607億ユーロ(6兆6770億円・1ユーロ=110円換算)の内、日本の食品は0・05%にすぎない。そう考えると、EUの二重・三重の検査措置はやや大げさに思える。

 厳しい検査体制の背景には、福島原発の事故について、欧州特にドイツのマスコミがセンセーショナルな報道を行い、市民が強い不安感を持ったという事実がある。大衆紙の第一面には「世界の終わり」、「黙示録」、「恐怖の原発」などの見出しが乱れ飛び、ドイツでも放射線測定器やヨード剤が売り切れになった。

 ドイツ人が放射能汚染に神経質である理由は、1986年のチェルノブイリ原発事故の際に、原子炉から大気中に撒き散らされた放射性物質が、1600キロメートルも離れた南ドイツで土壌や牧草を汚染したという経験である。バイエルン州東部の森林地帯や、ドナウ川南部地域では、1平方メートルあたり最高10万ベクレルのセシウム137で汚染された場所が見つかったこともある。放射性物質を含んだ空気がドイツ南部を通る時に雨が降ったために、バイエルン州では北部よりも放射能汚染が深刻になった。ちなみに1986年までに世界各地で行なわれた地上核実験の影響で、ドイツで観測されたセシウム137の量は1平方メートルあたり4000ベクレル。この数字と比べれば、チェルノブイリ事故による土壌汚染がいかに深刻だったかがわかるだろう。

 地上に降ったセシウム137は、キノコや野いちご、鹿や猪などを汚染した。ドイツでは秋に森で摘んだキノコを自宅で調理して食べる人が少なくない。また鹿料理のファンも多い。当時ミュンヘンに住んでいた私の友人は、「まさか1000キロ以上も離れた所からの放射能で、バイエルン州の食物が汚染されるとは思わなかった。かつて経験したことがない事態であり、当初は情報も不足したので非常に不安だった」と語る。放射能で汚染された牧草を乳牛が食べたために、粉ミルクがセシウムで汚染された例もある。エメリングという町では、食肉の汚染値を自分で測定し規制値以下であることを確認してから販売する商店主も現れた。

 ミュンヘンの連邦放射線防護局(BFS)によると、当時この町では、ほうれん草から1キログラムあたり2万ベクレルのヨウ素131、7000ベクレルのセシウム137が見つかった。さらに牛乳1リットルあたり1000ベクレルのヨウ素131、300ベクレルのセシウム137が検出されたことがある。

 事故から19年経った2006年の時点でも、森林地帯のキノコから1キログラムあたり1000ベクレルのセシウム137が検出されている。

 ところで、今回EUが日本からの食品について規制値を発表した時、消費者団体の関係者は首をひねった。その理由は日本からの食品のセシウム汚染に関する規制値が、チェルノブイリ事故の影響を受けた国からの輸入食品に関する規制値や、日本政府が使っている規制値よりも、はるかに高く設定されていたからである。

 EUは1986年5月に、いわゆる「チェルノブイリ指令」を施行させた。733/2008号と呼ばれるこの指令は、チェルノブイリ事故による放射能で土壌や農作物が汚染された、ウクライナやロシアなどからの食品に適用されるもので、牛乳や乳幼児向けの食品では、セシウム137と134の値は1キログラムあたり370ベクレルを超えてはならない。その他の食品の規制値は1キログラムあたり600ベクレルに設定されている。

 ところが福島原発の事故後にEUが日本の食品に適用した規制値は、「チェルノブイリ指令」の規制値を大幅に上回っている。牛乳と乳製品のセシウム含有量の規制値は1キログラムあたり1000ベクレルで、「チェルノブイリ指令」の2・7倍。その他の食品の規制値はチェルノブイリ指令の2倍である。

 なぜ2つの異なる規制値が適用されたのだろうか。今回日本からの食品に適用された規制値は、1987年に西欧諸国が合意した「欧州原子力共同体(EURATOM)指令」(3954/87号)に基づくもの。当時、欧州諸国は西欧でチェルノブイリ事故に匹敵する大事故が発生した場合に備えて、食品の放射能汚染に関する規制値を設定した。各国政府は、規制値を低く設定しすぎると、食料品が不足する危険があると考えた。また「EURATOM指令」は西欧での原発事故の影響がチェルノブイリほど深刻にならないという前提の下に、短期的な食料汚染を想定した。このため、「EURATOM指令」の規制値は、「チェルノブイリ指令」の規制値よりも高く設定されたのである。

 さらにドイツ政府によると、「チェルノブイリ指令」は、セシウム137による長期的な食物汚染に焦点を合わせた指令である。セシウム137の半減期は30年で、今なお野生動物やキノコの汚染が確認されている。EUはチェルノブイリからの放射性物質の影響が長期にわたることを想定して、規制値を低く設定したのだ。

 西欧ではまだ大規模な原発事故は発生していないので、「EURATOM指令」は一度も各国での法律として施行されたことがなく、福島原発の事故で初めて法制化された。つまりEUは24年前に合意されたものの、実際には使われていなかった規制値を取り出してきたのである。

 しかし放射性物質の危険度に変わりがないことを考えれば、食料品のセシウム汚染について2つの規制値があるというのは、おかしい。食品の安全を監視する市民団体「フードウオッチ」は、「1キログラムあたり800ベクレルのセシウムを含むキノコは、ロシアからはドイツに輸入できないが、日本からは問題なく輸入できることになる」と指摘し、日本食品の全面輸入禁止を求めている。

 興味深いことにドイツ消費者保護省も4月1日に発表した声明の中で「2種類の規制値があることは、消費者にとって理解しにくいので、欧州委員会に対して低い規制値に統一するように要求している」と説明している。

 しかも今回EUが施行した規制値は、日本の厚生労働省の規制値をも大きく上回っている。厚生労働省が3月17日に発表した指標によると、セシウムの食肉や野菜の規制値は、1キログラムあたり500ベクレル。これはEUの規制値の半分以下で、はるかに厳しい。牛乳に至っては200ベクレルで、EUの5分の1である。 

ドイツの環境政党・緑の党は、「EUの指令は、日本政府の厳しい規制値を配慮していない上、プルトニウムの規制値も設定していない」と批判している。

  こうした批判に答えて欧州委員会は4月8日、日本からの食品を対象としたセシウムなどに関する規制値を、日本政府が採用している暫定規制値 と同じ水準に引き下げた。

 規制値をめぐるEUの右往左往は、チェルノブイリ事故で食料汚染を経験した国々でさえ、日本での原発事故という新しい事態に十分対応し切れていないことを浮き彫りにしている。目に見えない放射能による食料汚染は、事例が少ないことも手伝って、どの国にとっても対処が極めて難しい問題なのだ。

週刊ダイヤモンド 2011年4月23日号掲載