ヒトラーの保養地は今

 

ドイツ・バイエルン州の南西部。

ミュンヘンから車で3時間も走ると、オーストリアの国境に程近い、オーバーザルツベルクという場所に着く。

険しく切り立った、灰色の岩壁を持つ、雄大なアルプス山脈と、したたるような緑、澄み切った空気。申し分のない景勝地である。

だがこの地域は、10キロほど離れたベルヒテスガーデンや、ケーニヒスゼーといった保養地に比べると、ホテルや食堂の数がはるかに少ない。

その理由は、オーバーザルツベルクが、第二次世界大戦の終結まで、ヒトラーなどナチス幹部が保養地として使った、忌まわしい場所だからである。

ミュンヘンで一揆を起こした罪で禁固刑に処せられたヒトラーは釈放後、この地域の山小屋で「我が闘争」の後半を口述筆記させた。

彼は1933年に政権を奪取すると、ある山荘を買い取って、「ベルクホーフ」と名づける。オーストリア出身のヒトラーは、雄大なアルプス山脈を望むこの山荘が好きだったに違いない。

ベルリンでの政務の合間をぬっては、オーバーザルツベルクに滞在し、外国の首脳らを山荘に招いて歓談していた。

ナチスの宣伝機関は、ヒトラーが愛犬や子どもたちとこの山荘のテラスで戯れる模様を、写真や映画に撮影し、独裁者の「人間らしい一面」を演出しようとした。

また空軍大臣ゲーリング、官房長官ボルマン、軍需大臣シュペーアらナチス・ドイツの幹部も、次々にこの地域に山荘を持つようになり、党員のためのホテルや、要人警護にあたる親衛隊の兵舎も建設された。

政府は、地下に防空壕を作り、地元の住民を立ち退かせ、一般市民の立ち入りを禁止する。

つまりオーバーザルツベルクは、ベルリンに次ぐ「第二の政府所在地」であり、犯罪集団ナチスの隠れた桃源郷だったのである。

そのことを知った連合軍は、1945年4月にこの地域に爆撃を加え、ヒトラーの山荘を初めとして多くの建物が破壊された。

戦後米軍は、党員用のホテルを接収して、保養施設「ジェネラル・ウォーカー・ホテル」として約40年間にわたり使用したほか、ナチスの信奉者がオーバーザルツベルクを聖地としてあがめることを防ぐために、残っていた山荘の残骸をすべて爆破した。

戦後、ヒトラーの山荘の調度品や装飾を集めようとする好事家が、絶えなかったからである。

さてソ連が崩壊して、東西冷戦が終結したため、米国は欧州に駐留する部隊を削減し始め、1996年にオーバーザルツベルクの管理地や軍人用の保養施設も、バイエルン州政府に返還した。

この時、州政府が下した決定が、ドイツの血塗られた歴史をめぐる、大きな議論を巻き起こすことになる。


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今年3月、ドイツ南東部のオーバーザルツベルクに、五つ星の高級ホテル、「インターコンチネンタル・ベルヒテスガーデン・リゾート」が開業した。

かつてナチスの幹部たちが別荘を持っていた因縁の地であるため、観光地としての開発が遅れていた地域に、本格的なリゾートホテルが建てられたのは、初めてのことである。

5000万ユーロ(約66億円)を投じて、丘の上に建設されたホテルでは、138の全ての客室から、雄大なアルプス山脈を眺めることができ、最も安いシングル・ルームでも宿泊料金は約300ユーロ(約3万9600円)、広さ175平方メートルのスイートの料金は、1泊1000ユーロ(約13万2000円)である。

高級レストランや、プール、マッサージ施設が整えられている他、日常の世話をする執事(バトラー)を注文することもできる。

バイエルン州政府は、1990年代半ばに、米軍が接収していた土地を返還することが決まった際に、「ナチスの過去との対決」と「観光開発」の両面作戦に出たのである。

つまり州政府は、1996年にオーバーザルツベルクがヒトラーらの保養地であった事実や、ナチスによるユダヤ人虐殺などの忌まわしい犯罪について、訪問者を教育する目的で、「オーバーザルツベルク情報センター」を開くと同時に、ホテルグループに開発許可を与えたのである。

この博物館には今年6月までに、ドイツ人を中心に70万人が訪れており、私が訪れた時も満員の盛況だった。

ホテルの開業式にあたり、バイエルン州の
K・ファルトゥルハウザー財務大臣は、「バイエルン州政府は、過去に眼を向けながら、オーバーザルツベルクの未来への道を切り開く。我々は情報センターによってナチの過去と対決するとともに、このホテルによってこの地域の観光事業を活性化したい」と述べた。

だが、ユダヤ人たちからはこのホテル建設について批判的な声が上がっている。

ナチスの戦犯追及を行ってきた米国の「シモン・ヴィーゼンタール・センター」は、インターコンチネンタル・グループが広報誌の中で「このホテルはリラックスするために、最適の場所です」と書いていることについて、「ベルヒテスガーデンは、7000万人の人命を奪った戦争に責任のある、ヒトラーらナチス幹部が滞在した、悪の巣窟だった。ホテルの快適さを強調することによって、ベルヒテスガーデンの暗い歴史を忘れることは、ナチズムの犠牲者に対する冒とくだ」と批判する声明を発表している。

私も、情報センターで受け取ったプレスキットの中に、ホテルの宣伝資料が、どっさり入っていたのには、たくましい商魂を感じ、驚いた。

他の博物館でこんな経験をしたことは一度もない。

ロシアやポーランドで、ユダヤ人やロマが虐殺されていた時、ナチスの幹部たちがこの美しい山並みを眺めていたと思うと、やはり複雑な気持ちになる。

歴史への反省に、ビジネスが忍び込んでくるのは、時代の風潮なのだろうか。


保険毎日新聞 2005年8月