独仏国境・マジノ線はいま

ミュンヘンから車で高速道路を、ひたすら西へ走ること6時間。

ザールブリュッケンのやや東に、ホルンバッハという村がある。

この村を過ぎて南へ走ると、家並みがなくなり、見渡す限りの平原が広がっている。

草原の中を10分も走ると、フランスの国境を示す立て札があるので、国が変わったことが、かろうじてわかる。

税関も、国境検査所もない。

この道を途中で右に曲がり、駐車場に車を停め、新緑が美しい森の中を20分歩く。

突然視界が開けると、丘の中腹に分厚いコンクリートの壁で守られた、地下基地の入り口が現れる。

鉱山のトロッコのような線路が、暗闇の中に通じており、入り口の両側には、対戦車砲と、機関銃が備えつけられている。

周りの田園風景とは対照的な、物々しさである。

これが、第二次世界大戦前に、フランス軍がドイツの侵攻を防ぐために造った地下要塞、マジノ線の跡である。

トロッコに乗って、洞窟のような要塞の中に入っていく。

漆黒の闇の中に、ドイツ軍を迎え撃つための砲弾が貯蔵されていた弾薬庫、フランス軍の旧式の野砲、兵士たちの休憩室などが残されている。

第一次世界大戦では、ベルダンなどでドイツ軍とフランス軍の間で戦線が膠着状態になり、両軍が塹壕にこもり、戦車や毒ガスを投入して何年も小競り合いを繰り返すという、悪夢のような戦いが続いた。

この経験から、フランスでは厭戦気分が蔓延していたが、ナチスのような極右政党の登場などによって、「ドイツの脅威」に対する不安も消えなかった。

そこで1929年にフランス政府は、第一次世界大戦の生き残りであるアンドレ・マジノという軍人の発案により、ドイツと国境を接している北東部に、全長150キロメートル、70の地下基地、500の砲台を持つ防衛線の建設を開始した。

1936年までにマジノ線の建設には50億フランという莫大な金額が投じられたが、ドイツではヒトラーが政権を奪取したことから、フランス政府は「ドイツの攻撃に備えるためには、必要な投資」と主張した。

マジノ線では、地下の陣地ごとに200人の将兵を収容することができた。

水と燃料は3ヶ月、食料と弾薬は1ヶ月にわたり、補給なしで戦うことができるだけの備蓄があった。

多くのフランス人はこの要塞について「ドイツ軍はこの要塞を絶対陥落させることができない」という神話にも似た先入観を抱いていた。

確かに当時の記録映画を観ると、上部が丸くなった巨大なきのこのような砲台が地下からせり出してきて、速射砲を撃つシーンがある。

1930年代の人々にとっては、「ハイテク要塞」と映ったに違いない。

フランスがドイツ軍の侵攻を食い止めるために、7年の歳月をかけ、50億フランという巨額の費用をかけて建設した地下要塞マジノ線は、フランス人たちに奇妙な安心感を与えたようである。

ナチスドイツ軍の戦車部隊が、1939年にポーランドに侵攻してまたたく間に同国を占領したのを見ても、フランスはマジノ線の背後に隠れていれば安全と考えたのか、ドイツの背後を突く積極的な攻勢に出ようとはしなかった。

むしろドイツ側の「フランス人の皆さん、ポーランドのために命を投げ出すのですか?」という巧みな宣伝を信じ込んだような印象すら与える。

1940年にドイツ軍の侵攻が始まった時、フランスは第一次世界大戦の時と同じく、ドイツ軍がベルギーを通過して侵入してくると予想していた。

だが実際にはドイツ軍の戦車部隊は、ベルギーとルクセンブルクの間にある、アルデンヌの森林地帯を抜けて、フランスになだれ込んだ。

アルデンヌの深い森は、戦車の移動には不向きだというフランス側の予想の裏をついたのだ。

ドイツ側は、マジノ線もセダンの付近で難なく突破し、要塞を通り越したり、迂回したりして首都パリを占領する。

凱旋門に、ナチスの鉤十時の旗がひるがえり、文化都市はドイツ兵の軍靴に踏みにじられた。

捕虜になることを免れたフランス兵たちは、命からがら大西洋沿岸のダンケルク付近で船に乗り込み、英国へ脱出した。

「難攻不落(アンヴァンシーブル)」であるとフランス人たちが信じた要塞は、国の防衛にはほとんど役に立たない、無用の長物となってしまったのだ。

開戦から約1ヶ月で、フランスはナチスの軍門に下った。

第一次世界大戦の記憶から抜け切れなかったフランス人たちは、戦争の中心が塹壕戦や要塞戦ではなく、スピードを重視する快速部隊に移っていたことに、気づかなかったのである。

独仏国境に沿った地域には、マジノ線の地下壕や砲台、機関銃座の跡が、のどかな田園風景の中にぽつんと取り残されている。

その中のいくつかは、観光名所になっており、観光客をトロッコに乗せて、地下要塞の中を移動させ、照明や音響による効果で第二世界大戦中の雰囲気を味わわせる仕掛けになっている。

軍事的には役に立たなかったのに、50億フランという国民の血税を吸い込んだ、一種の現代版お化け屋敷のようにも思える。

ドイツとフランスが、
EUの中でも最も強い連帯を誇っている今日、武骨なコンクリートの要塞の跡は、60年前にこの二つの国が不倶戴天の敵として銃火を交えたことを思い起こさせる、警鐘の石碑でもあるのだ。

熊谷 徹 保険毎日新聞 2006年5月