西ベルリンを救った男たち

ベルリンの西部、グルーネヴァルト地区とツェーレンドルフ地区にまたがって、「クレイ・アレー」という、米国人の名前がついた道がある。

ルシアス・
D・クレイ将軍は、1945年からアイゼンハワー将軍の右腕としてベルリンに赴任し、1947年から1949年まで、ベルリンとドイツ西部で米軍が占領する地区の、軍事行政管理官を務めた。いわば、ベルリン版マッカーサーである。

ベルリンでは、米ソがきびすを接していたため、クレイの任務はマッカーサーが担当していた日本統治よりも、大きな危険を伴っていた。

彼の最大の功績は、ソ連による封鎖に対抗して史上最大の空輸作戦を発案、実行し、西ベルリンを救ったことである。この事件は、米ソの最初の力比べでもあった。このため、西ベルリンの焼け跡世代にとって、「クレイ」は忘れることができない名前だ。

1940年代後半、米ソ対立の予兆と東西ドイツ間の亀裂は、刻一刻と明確になっていた。

当時ベルリンは、ドイツ本土の米英仏の占領地区から切り離され、ソ連軍の占領地域に浮かぶ孤島になっていた。ベルリンの中でも西半分だけが、米国と西欧諸国の影響下にあった。スターリンにとって、西ベルリンは肉に刺さったトゲだったのである。

今からちょうど60年前にあたる1948年6月、米英仏の占領地域で、ナチス時代に使われていたライヒスマルクが廃止され、新しいドイツマルクが導入された。

ソ連占領地域を除く全ての地域で、人々は銀行に殺到し、新紙幣を手にした。この改革によってドイツ西部では、食料品の配給や価格統制が廃止され、奇跡の経済成長のための第一歩を踏み出した。

ソ連は、西側の通貨改革に対抗して、強硬な措置に出た。同年6月24日、ソ連軍はドイツ本土とベルリンを結ぶ道路・鉄道をすべて遮断するとともに、ベルリンへの食料と電力の供給もストップさせた。

クレイ将軍は、トルーマン大統領に「ドイツ本土から武装兵士を伴ったコンボイ(輸送部隊)を送って、封鎖を突破しては」と進言したが、米国政府はソ連との間に戦争が起きることを恐れて、この案を却下した。

だがスターリンの狙いが、ベルリン封鎖によって、この町に駐留する米英仏の軍隊を撤退させることにあるのは、明らかだった。つまり、ベルリン東部だけでなく、西側までも完全に呑み込もうというのだ。戦争の暗雲は、ナチス・ドイツの降伏からわずか3年後に、再びヨーロッパを覆い始めた。

ソ連が1948年に行ったベルリン封鎖は、人々の生活に深刻な影響を与えた。食糧の配給は切り詰められ、西ベルリン市民の大半は、配給切符によって毎日わずか400グラムのパン、40グラムの砂糖、40グラムの肉、5グラムのチーズしか与えられなかった。

人々が配給の食糧で得られる1日あたりの栄養は、1880カロリー前後。電力の供給は、1日2時間から4時間程度。ベルリンの工業生産力は、戦災のために1936年の水準に低下していたが、ソ連軍の封鎖によって生産力はその半分まで落ち込んだ。

西ベルリンのエルンスト・ロイター市長は、全世界に向けて「この町を見て下さい。そして、西ベルリンを見捨ててはならないということを、理解して下さい」と訴えた。市長の「我々ベルリン市民は、自由のために戦います」という言葉に押されたクレイは、「ベルリンに物資を空輸することによって、市民の生活を維持するべきだ」とトルーマン大統領に進言した。英仏だけでなく、米国の軍人の間にも、「人口250万人の都市に、必要な物資を、空輸だけで補給するのは、とうてい無理だ。ベルリンはソ連に明け渡したほうが良いのではないか」という、弱腰の意見があった。

だがトルーマンは、「我々は、ベルリンにとどまる」と決断した。米軍は、欧州や米国本土だけでなく、遠く離れたハワイ、アラスカ、カリブ海、日本の基地からも使用できる輸送機をかき集めて、ドイツに送った。

 世界の歴史の中で、大都市を11ヶ月にわたって空からの補給だけで支えた空輸作戦は、例がない。

しかも当時の輸送機は、第二次世界大戦で使われた旧式のプロペラ機ばかりである。米軍の記録によると空輸の回数は、27万8228回に達する。その内68%を米軍、32%を英軍と仏軍が担当。233万トンもの物資が、寒さと空腹に苦しむベルリン市民に届けられた。

この作戦には米国、英国、フランス空軍からのべ5万人が参加。物資の70%は暖房用の石炭で、25%は食料だった。ソ連による電力供給停止に対抗するために、米軍は解体した発電所をベルリンに輸送し、現地で組み立てさせた。

ヤンキーたちは、「イースター(復活祭)のパレード」と称して、1949年4月16日だけで、のべ1400機の輸送機を着陸させ、1万2900トンの物資を届けた。これは、62秒おきに1機の輸送機が飛来したことを意味する。

物資を降ろすための時間は、6分間。まさに、綱渡りである。

米軍の司令官は、輸送のテンポを速めるために、西ドイツの各基地がベルリンに送り込んだ物資の量を毎日発表し、基地の間で競争させた。パイロットたちは、まるでバスケットボールの試合ででもあるかのように、輸送回数を競った。米国ならではの競争原理の導入である。

今からちょうど60年前にあたる1948年、ソ連のベルリン封鎖に対抗して、米国など西側諸国は、大都市を空輸だけで支えるという例のない作戦を開始した。ソ連は、米英仏に対して、ドイツ東部の占領地域の上を飛ぶことを原則として禁止していた。

西側諸国が飛行を許されていたのは、ドイツ西部と西ベルリンを結ぶ、高度3000メートル、幅30キロメートルの3本の「空中通路(コリドール)」だけだった。西側連合軍は、物資を運ぶ輸送機には、フランクフルトのライン・マイン基地と西ベルリンを結ぶ、一番南の通路と、北ドイツと西ベルリンを結ぶ一番北の通路を使わせ、真ん中の通路は、物資をベルリンで降ろしてドイツ西部に戻る輸送機に使わせた。

この通路を外れると、ソ連軍に撃墜される危険があった。

 物資を運んでくる輸送機を、ベルリンっ子たちは、敬愛の念を込めて「ロジーネン・ボンバー(レーズンを落としてくれる爆撃機)」と呼んだ。それは、米軍のパイロットたちが、ハンカチで小さなパラシュートを作り、お菓子に結びつけて、ベルリンに着陸する寸前に、地上へ落としたからである。まもなくベルリン西部のテンペルホーフ空港には、数千人の子どもたちが集まって、輸送機がばらまくお菓子を待つようになった。

 1949年5月11日、ソ連はベルリン封鎖を中止し、ドイツ本土との交通が再開された。「ベルリンを明け渡してはならない」というクレイの固い決意が、ソ連による占領から、孤島・西ベルリンを救ったのである。

その2年後、西ベルリン市民たちは、テンペルホーフ空港に、ベルリン空輸の記念碑を建てた。高さ20メートルの3本の支柱は、西ドイツと西ベルリンを結ぶ、3本の飛行ルートを表わす。

空輸の途中に、輸送機の墜落などによって死亡した米国人、英国人の数は、70人。記念碑の土台には、ベルリンを救うために命を捧げたパイロットらの名前が刻まれている。空港の北側、コルンビア・ダムに面した一角には、空輸作戦に参加した
C54「ダコタ」型輸送機が、翼を休ませている。

米国が西ベルリン市民を見捨てず、歴史上例のない空輸によって1年近く食糧や燃料を供給したことは、米国と西ドイツの間の結束を固めることに貢献した。ベトナム戦争やイラク戦争、グアンタナモ収容所などで、昨今米軍は批判にさらされることが多い。

しかし、第二次世界大戦でヨーロッパをナチスから解放し、西ベルリンをソ連の兵糧攻めから救った功績は、忘れられるべきではない。

(文・絵 熊谷 徹 ミュンヘン在住)

保険毎日新聞2008年10月