ドイツ人の心

 日本人、とくに年配の人の中には、ドイツ人が日本人と似ていると考える人が、時々いる。確かに、どちらの国民にも勤勉というイメージがある。だが私は1990年以来この国に暮らして、ドイツ人のアイデンティティや国民性は、ずいぶん日本とは異なるということに気づいた。

    質実剛健

 日本からやって来る女性観光客の中には、「ドイツには、おしゃれをしている人が少ないわね」という感想を持つ人が多い。確かに、電車や地下鉄に乗ると、地味もしくはカジュアルな格好をしている人が目立つ。

彼らがおしゃれをするのは、コンサートホールや、オペラ劇場に行く時、または結婚披露パーティーなど、特別な機会に限られている。レストランでも、普段着の人が多い。ドイツ人は、日本人やイタリア人ほど、洋服や靴にはお金をかけない。虚飾をきらう民族なのだ。「見てくれよりも、中身が大切」というわけだ。

ドイツ人は、日本ほど世間の目を気にしない。「世間」というのは、きわめて日本的な概念で、ドイツ語にぴったりあてはまる言葉や概念がない。ドイツ人は世間体よりも、自分を重視するのだ。

また、ドイツ人は日本人ほど食事にお金をかけないし、グルメの数もわが国ほど多くはない。Abendbrotといって、夕食はパンで済ます家庭が大半である。一部の富裕層を除けば、生活ぶりは質素で、倹約家が多い。同じ商品を少しでも安く買おうとする、いわゆるSchnappchenjagd(お得な買い物)は、所得が多い少ないにかかわらず、ドイツ人ならば誰でも好きである。

このため、人々が不用品を持ち寄って売り買いするFlohmarkt(蚤の市)は、日本では想像もできないほど人気がある。週末にはあちこちの広場で、古着や家具、古本が売られる。彼らは日本人に比べて、新しい物に対する執着心が少ないのだ。

ドイツ人が比較的お金をかけるのは、住宅である。ドイツでは日本に比べると、持ち家の比率が低い。それでも、老後の備えとして、アパートや家を購入する人が徐々に増えつつある。私は日本と米国に住んだことがあるが、この国の新築マンションの快適さは、世界に誇ることができる。外国に輸出できないのが残念だが、ドイツの伝統的な技術が至る所に生かされており、投資する価値は十分にある。

ドイツ人を理解する上で重要なキーワードの一つは、Gemutlichkeitという言葉だ。日本語の「快適さ、心地よさ」という訳語は、ニュアンスを完全に表現していない。これは様々なストレスから解放されて、本来の自分に戻ることができた時に感じる、ゆったりとした心持ちをさす。Gemutlichkeitこそは、ドイツ人にとって最も大事なものの一つであり、そのために彼らは住宅を重視するわけだ。

 

*テュフトラーの国

もちろん、誰もが住宅にお金をかけられるわけではない。その場合、ドイツ人は自分の手で住宅のリフォームや改装を行う。ボロボロになった家やアパートを安く買い、長い期間をかけて修復する人が少なくない。ドイツ人には、大工仕事だけでなく、浴室のタイル張りから、配線、配管、床板の張替えまで自分でやってしまう人が多い。とにかく手先が器用な人が多いのだ。日本では、大型の電動ドリルを持っている人はあまりいないと思うが、ドイツの家庭では、日本の電気炊飯器並みの必需品である。私も17年前にドイツに来て、マシンガンのように見える、強力なドリルを初めて購入した。こちらの住宅の壁は、堅固な石なので、ドリルがないと、鏡一つ壁にかけられないのだ。

ドイツ人の国民性を表わすキーワードとして、「テュフトラー(Tuftler)」という言葉も重要だ。これは、精密な機械工作や、機関車や帆船模型の組み立てなど、細かい手作業に執念を燃やすのが好きな人のことである。頑固なまでに高い技術に執着する、マイスター制度の伝統が、今も生きていることを感じる。

テュフトラーがとくに多いのは、旧西ドイツ南西部の、バーデン・ヴュルテンベルク州を中心とする、シュヴァーベン地方。ここにはダイムラー、ポルシェ、ボッシュなど、世界的に有名なメーカーが多い。これらの企業ほど有名ではないが、ネジや工作機械など、極めて特殊な分野で、世界で一、二を争うほどのマーケットシェアを持った中小企業も目白押しである。このことは、テュフトラー的メンタリティーと、大いに関係がある。

ドイツには、日曜大工用の材料や、工具を売る店が非常に多い。大きな家具でも、部品のまま買って帰り、自分で組み立てる人がほとんどだ。DO IT YOURSELFが当たり前になっている理由の一つは、人件費の高さである。職人さんに電気工事や家具の組み立てを頼むと、事務所と作業を行う現場の間の往復時間まで、作業時間として計算するので、請求書がべらぼうな値段になることが多い。

このため、お金を節約するために、職人に頼まずに自分でやってしまう人が多いのだ。Schnappchenjagdの精神が、ここにも生きている。倹約は、サッカーと並んで、ドイツ人が最も好きな国民的スポーツなのかもしれない。

彼らの節約精神は、社会の至る所に見られる。地下鉄の駅のエスカレーターは、ふだんは止まっており、人が乗った時だけ動く。アパートやホテルの通路の電灯も、人がいない時には消えており、押してから5分もすると、ふたたび自動的に消える。電力を節約するためである。

 

* プライベートな時間を重視

 ドイツ社会と日本社会の最も大きな違いの一つは、プライベートな時間と、仕事の時間の区切りである。日本では、どうしても仕事が優先になってしまうが、ドイツの企業では法律によって、原則として1日10時間を超える労働や、祝日と日曜日の労働は禁止されている。労働基準監督署の検査は厳しく、組織的に社員を10時間以上働かせていたことがわかった場合、人事部長が逮捕されることもありうる。

 また、ドイツの企業や役所では原則として、毎年30日間の有給休暇を、完全に消化することが許されている。それどころか、管理職は部下に対して、30日間完全に休むように、奨励しなくてはならない。管理職になると、忙しいために30日間休まない人も多いが、平社員の場合、全ての日数を消化するのは当たり前だ。全員が交替で休むので、ねたみは起こらないし、旅先からお土産を買ってきて同僚に配る必要もない。

 これは、ドイツ人が家族との時間や、個人のプライベートな時間を重視するためである。また彼らは、欧州諸国の中でも、職場と家庭を厳密に切り離すことでも有名で、仕事の後や週末に同僚を自宅に招いたり、一緒に外食をしたりすることは、ほとんどない。

 こうした傾向は、学校にも見られる。ドイツの学校は、夏休みや冬休みにめったに宿題を出さない。子どもたちが宿題にわずらわされることなく、両親や友だちとの時間を楽しむことができるようにするためである。

 ドイツ人は、1日の労働時間が短いので、勤務時間中はムダ口をたたかずに、一心不乱に働く。昼食のための休み時間は、15分から30分だけという企業も多い。彼らは効率性をとても重視するので、オフィスは実に整然と片付いていることが多い。書類を探すことで時間をむだにしたくないからである。ドイツ人の分類、整理好きは、効率性を重視するという国民性と大いに関連がある。この国のファイリング・システムは規格化されているため、文書の整理がとても容易だ。彼らはコンピューターがない時代にも、文書を短時間で発見できるシステムを開発していたのだ。

 

    直接的な物言い

日本社会では、他人に気配りをすることが、美徳とされる。会話の中でも、他の人の気持ちを傷つけないように配慮をすることが、大事だ。極端な場合、相手にショックを与えないために、事実をオブラートに包んで伝えるということもあり得る。たとえば、ある人が重い病を患った時、本人が意気消沈しないように、本当の病名を伝えないこともある。「うそも方便」という諺があるのは、そのためである。

これに対しドイツでは、事実を包み隠さず、はっきりと伝えることがきわめて重要だ。ほとんどの人は曲がったことが嫌いで、誠実さ、正直さを重視する。だから、相手がたとえショックを受けても、事実を伝えるにこしたことはないと、ほとんどの人は考える。「うそも方便」という考え方は、あり得ない。この背景には、「神様の前でうそをついてはならない」という、キリスト教的な倫理観もあるような気がする。

会社でも、上司が部下を歯に衣を着せずに批判することが、日本よりも多い。顧客の目の前で部下を叱るような上司すらいる。われわれ日本人は、上司に叱られると、つい根に持ってしまったり、くよくよしてしまったりする。

だがドイツ人は、sachlich な(事柄に関する)批判と、personlichな(人格に対する)批判をはっきり区別する。つまり上司が部下を批判する時には、「ミスについて叱っているのであり、あなたの人柄を責めているのではない」ということをはっきりさせるのだ。このため両者の間に、感情的なわだかまりは、日本ほど強く残らない。

逆に言うと、ドイツでは他人からの批判や不平、不満に対する抵抗力のようなものがないと、ノイローゼになってしまう恐れがある。

日本では、不平を言わずに歯を食いしばってがんばることが、美徳とされる。これも、周囲に対する気配りの現われである。だがドイツ人は日本人よりも不平や不満を、はっきり言うことが多い。自分の感じたことを、堂々と言うことが基本的に許される社会なのだ。

ある時私は、スーパーマーケットのレジの前で、自分の順番が来るのを待っていた。1人の客が、受け取ったレシートの内容について、質問をした。この時に、店員は「こんなに忙しい時に、うるさいなあ」という態度を見せ、客に対してぞんざいな口をきいた。すると、他の客たちが、「あなた、そういう物の言い方はよくないわよ」、「そうよ、誰だって質問をする権利はあるじゃないの」と言って、店員を口々に批判したのだ。日本ではあまり見かけない光景だった。

ドイツは「和をもって尊しとする」社会ではないので、他人と意見が食い違うことは、それほど問題ではない。要は、どのようにして自分の主張が正しいことを、論理的に説明して、相手を納得させるかである。日本の座談会では、参加者が似たような意見を持っており、時にはお互いをほめることまであるが、ドイツの座談会ではわざと異なる意見の持ち主を参加させて、激しく討論させる形式がほとんどである。ディスカッションを重視するドイツ人を見ていると、These Antithese を対立させ、議論によって高次のSyntheseに昇華させる、ヘーゲルの弁証法の伝統が生きているなと感じることがある。

 

    法律、規則、契約を好む

 「ドイツで生まれた子どもが最初に覚える言葉は、verboten(禁止されている)だ」という冗談を聞いたことがある。こんなジョークが語られるほど、ドイツ社会は法律や規則の洪水である。法律や契約よりも信頼関係を重視する日本人には、やや窮屈に思われるかもしれない。しかし、これは曖昧さをきらい、物事の白黒をはっきりさせるのを好む、ドイツ人の性格をよく表わしており、慣れてしまうと、むしろ便利である。たとえば、企業では社員全員が労働契約を持っている。契約の内容は、1人1人異なる。

労働契約には、給与の額だけでなく有給休暇の日数や、禁止事項、解雇もしくは退職の際の事前通告期間などが、細かく記されている。このように重要な事柄がきちんと明文化されているのは、雇用が不安定な時代には、いささかの安心感を与えてくれる。

 ドイツには、離婚する際の財産の分け方などを決めた、結婚契約書を取り交わしてから、夫婦になるカップルすらいる。グレーゾーンを極力少なくしようとするのは、ドイツ人的なメンタリティーだ。感情だけでなく、理屈と論理性を重んじる人々なのである。

 

    個人主義と相互扶助の精神

 彼らがプライベートな時間を重視し、世間体よりもくつろげる空間を大事にするのは、ドイツ人の重要なアイデンティティである、個人主義の表われだ。個人の権利を重視するからこそ、義務や禁止事項を明記した法律や契約が、大きな意味を持つ。意見の対立を恐れず、ディスカッションを重視する背景にも、彼らの心の奥底に根付いた個人主義がある。

日本でも若い世代を中心に、個人主義が強まっていると言われる。しかし個人主義を、エゴイズムとはきちがえてはならない。われわれ日本人は、親類縁者、知人、友人、同僚などに対しては細かく気配りをするが、道端などで知らない人が困っていても、見て見ぬふりをすることがある。

 ドイツでは、子どもを連れた母親やお年寄りが、大きな荷物を持って駅の階段などにさしかかると、見知らぬ人が荷物を運んでいるのを、日本よりも頻繁に目にする。具合が悪くなって、路上に座り込んだ人の周りに、通行人が集まって介抱しようとしているのも、よく見る。わが国では、知らん顔をして通り過ぎる人が多いのではないだろうか。アジアでの大津波のように、外国で自然災害のために多くの犠牲者が出た場合にも、ドイツ人は多額の寄付をする。

このように、見知らぬ人にも手を差し伸べる、助け合いの精神は、ドイツ人の潜在意識の中にある、キリスト教の倫理観と関係があるような気がする。近頃では、教会税を払わなくてもすむように、教会を脱退する若者が少なくないが、それでも彼らの発想の根底には、キリスト教の精神が見える。日本や米国と違って、ドイツが社会保障を重視する背景にも、同じ考え方がある。個人主義と、助け合いの精神は表裏一体の関係にあるのだ。

 ドイツでも、日本と同じように所得格差が大きくなる傾向がある。だが、弱者に手を差し伸べる助け合いの精神と、社会正義(soziale Gerechtigkeit)を求める心だけは、失って欲しくないものだ。

2007年 IDEE誌掲載