2006年1月26日 衆議院 第一議員会館

「歴史リスクを乗り越える研究会」講演

なぜドイツは歴史リスクと戦ってきたのか        熊谷 徹

(簗瀬 進議員による講師紹介)

熊谷)

ただいまご紹介に預かりました熊谷と申します。本日は、「歴史リスクを乗り越える研究会」の創設という重要な節目に、講演をする機会を与えて下さり、心から感謝いたします。

1 はじめに

ドイツと日本の戦後の歴史には、似ている点がいくつかあります。二つの国はともに、第二次世界大戦で敗れ、連合軍に占領されました。また周りの国々から、「戦争中に、他の国民に対して残虐行為を行った」として、強く批判されたことも、似ています。しかし戦後の日本とドイツは、過去とどのように向き合うかという問題については、異なる道を歩んできました。

私は、ドイツと日本の「過去との対決」を単純に比較することはできないと思います。その理由は、二つの国が戦争に至った背景、二つの国が戦後に歩んできた道のり、そして残虐行為の規模や動機に大きな違いがあることです。

たとえば、ナチスは、数100万人の市民を、列車で絶滅収容所に送り込み、ガス室を使って、まるで工場の流れ作業を思わせる組織的、計画的な方法で殺害しましたが、このような規模や種類の犯罪は、アジアでは行われませんでした。

ただし、ドイツと日本という二つの敗戦国が、いま置かれている国際環境を、比べることは、可能だと思います。特に「歴史認識をめぐるトラブル」に関する状況を、ヨーロッパとアジアの間で比べて見ますと、そこには大きな違いが浮かび上がってきます。

現在のヨーロッパは、過去2000年の歴史の中で、最も平和な状態にあります。ドイツは欧州連合の一員として、周りの国から信頼されており、日本のように深刻な「歴史認識をめぐるトラブル」を抱えていません。

去年中国で、日本の歴史認識を理由にした反日デモが起きました。これに対しヨーロッパの各地で活動しているドイツ企業は、歴史認識を理由としたデモを恐れる必要は、ほとんどありません。

ドイツの首相が特定の宗教施設を訪問することによって、周りの国々との関係が悪化したり、首相が外国政府から批判されたりするという事態も、起きていません。

かつて戦争を繰り返し、犬猿の仲だったフランスとドイツは、欧州連合の中で最も強い友好関係で結ばれています。やはり敵国同士だったポーランドとドイツの関係も、急速に改善されています。

つまりドイツ人たちは、半世紀以上にわたる理論武装と実践によって、周りの国々から批判される理由を、減らすための努力を続けてきたのです。

これに対し、いま日本と中国、韓国の関係は、歴史認識が原因となって、深刻な状態に陥っています。

欧米の有力な新聞には、中国や韓国政府の要人が、「日本は真剣に過去と対決していない」と発言したことを報じる記事が、時々掲載されます。

しかし日本政府が、説得力のある反論を行っていないために、海外では、日本の主張は理解されていません。これに対し中国や韓国の主張が、次第に「事実」として受け止められつつあります。

日本政府が過去に謝罪してきたことは、海外ではそれほど注目されていません。むしろ「日本は歴史を美化し歪曲する国」というイメージが、欧米の政治家、財界関係者、ジャーナリストの間で、定着しつつあるのです。

ドイツが、他の国からの批判に対抗するために、堅固な鎧をまとっているとすれば、日本は無防備であり、丸裸に近い状態ではないでしょうか。

日本人として、私はこのことを大変残念に思います。

私は、戦争の歴史について、周りの国との間で、共通の認識を持たず、自国の歴史のマイナスの部分を、若い世代に伝える努力を、十分に行わない国は、大きなリスクを抱えると考えています。それは過去の歴史が、今日の外交や経済関係に悪い影響を与えるというリスクです。

たとえば、歴史認識の問題が、首脳会談の実現を妨げたり、他の重要な議題について話し合うことを妨げたり、民衆を反日デモに立ち上がらせる口実として使われたりすることは、皆様もご承知の通りです。企業にとっては、戦争中の振る舞いをめぐって、民事訴訟を起こされて、イメージに傷をつけられたり、不買運動を起こされたりする恐れがあります。

しかも歴史リスクは、時間とともに拡大し、解決が困難になります。残虐行為に関する証人らの数が少なくなるため、客観的なデータに基づく検証が、難しくなっていくからです。

ドイツは10カ国と国境を接しており、資源に乏しいため、貿易に依存しています。こうした国が生き残るためには、過去の問題と積極的に取り組むことが、不可欠だったのです。

この結果、ドイツが抱える歴史リスクは、日本よりも小さくなっています。

もちろん、歴史認識は感情にからむ問題ですから、どんなに過去と真剣に取り組んでいても、かつての被害者から批判される可能性はあります。

それでも、ドイツのように過去の問題に執拗に取り組んできた国は、他の国から批判された時に、「自分たちは、これだけの努力をしてきた」と言って、具体的な証拠を見せながら、論理的に反論することができます。

ドイツが歴史リスクを放置していたら、ベルリンの壁の崩壊後に、東西ドイツ統一があれほどスムーズに実現することはなかったでしょう。また、ユーロ導入を初めとする、ヨーロッパの統合も、現在ほど進むことはなかったでしょう。

では、ドイツはどのようにして、歴史リスクを減らす努力を行ってきたのでしょうか。

2 ドイツ政府による賠償

ナチスの犯罪によって、最も大きな被害を受けたのは、ユダヤ人です。1939年の時点で、ドイツ、ソ連、ポーランドなどヨーロッパの20カ国に、830万人のユダヤ人が住んでいましたが、そのうち72%にあたる、およそ600万人が殺害されています。

1952年9月に、アデナウアー首相はイスラエルと、ユダヤ人団体との間で、「ルクセンブルク合意書」に調印しました。この合意に基づき、西ドイツ政府は、イスラエル政府などに対し、合わせて約35億マルクを支払いました。当時の35億マルクを今日の貨幣価値に換算しますと、およそ3500億円に相当します。

しかしルクセンブルク合意は、ドイツが行ってきた賠償の氷山の一角にすぎません。ドイツは、この他にもいわゆる「連邦賠償法」や二国間協定によって、賠償金を支払い続けてきました。

ドイツ政府が1998年に発表した資料によりますと、1952年からの46年間にドイツが支払った賠償金は、1021億マルクにのぼります。今日の貨幣価値に換算しますと、2000億マルク、およそ10兆円に相当する金額です。

賠償を行ってきたのは政府だけではありません。2000年8月、ドイツ連邦政府と、ドイツ企業およそ6400社は、ナチスの支配下で強制労働をさせられた市民らのために、賠償基金を創設しました。政府が賠償金の50%、企業が50%を負担しています。

この基金は、これまでに162万人の被害者に対して、およそ42億ユーロ(約5649億円)の賠償金を支払いました。しかしドイツは、金銭による賠償以外にも、様々な努力を行ってきました。

 ブラント首相の歴史認識

ドイツの東隣の国ポーランドは、ナチスによって最も大きな被害を受けた国の一つです。1939年のポーランド国民3600万人の内、およそ17%にあたる600万人が死亡しています。特にポーランドにいたユダヤ人の85%が、殺害されました。

1970年に、西ドイツの首相だったヴィリー・ブラント氏は、ワルシャワ・ゲットーの慰霊碑を訪れました。これは、ユダヤ人たちがナチスに対して蜂起し、多くの市民が殺害された事件を記憶するために作られた、慰霊碑です。ブラント首相は、この慰霊碑に花を捧げた後、突然、ひざまずきました。西ドイツの首相が、慰霊碑の前で膝を折った映像は、全世界をかけめぐりました。この映像は、謝罪の気持ちを、全身で表現する「新しいドイツ人」の姿を、ユダヤ人を初めとする、被害者たちに対して強く印象づけたのです。

私は1989年にボンでブラント元首相に、歴史認識についてインタビューをしました。その時に聞いたブラント元首相の、次の言葉が、今も私の胸に残っています。

「自分の国の過去について、批判的にとらえればとらえるほど、周りの国々との友好関係を深めることができる。若い人々には、ナチスの犯罪について責任を負わせてはならない。しかし彼らも歴史の流れから抜け出すことはできないのだから、ドイツの歴史の暗い部分についても、学ばなくてはならない」。

ブラント元首相の歴史認識は、今も、ドイツ政府によって脈々と受け継がれています。ドイツの首相、大統領、外務大臣にとって、アウシュビッツ強制収容所の跡や、エルサレムにあるホロコースト博物館(ヤド・ヴァシェム)を訪れて、犠牲者に追悼の意を表し、謝罪の言葉を述べることは、常識となっています。

2005年は、アウシュビッツ強制収容所がソ連軍によって解放されてから60年目にあたりました。この時にベルリンで行われた追悼式典で、当時首相だったシュレーダー氏が行った演説の一部を、引用します。

「私はアウシュビッツで殺された人々、そして収容所の地獄を生き延びた皆さんの前で、恥の感情を抱いています。アウシュビッツ、チェルムノ、トレブリンカ、マイダネクという強制収容所の名前は、ヨーロッパとドイツの歴史に永遠に結びつけられていくでしょう。何100万人もの子ども、女性、男性たちが、ドイツの親衛隊員らによって、ガスで窒息させられ、飢え死にさせられ、射ち殺されました。

(中略)

今日のドイツ人の大部分は、虐殺について直接責任はありません。しかし、ナチスの犯罪について記憶することは、ドイツ人の道徳的な義務です。我々は犠牲者、その遺族だけでなく我々自身のためにも、この義務を遂行しなくてはならないのです。歴史を忘れるという誘惑は大きいですが、我々は誘惑には絶対に負けません」。

以上がシュレーダー前首相の言葉です。

ここには、過去を心に刻み、被害者に謝罪することが、ドイツの国是であり、外交政策の根幹であるという発想が、にじみ出ています。被害を受けた国や市民にとっては、ドイツが過去の犯罪を忘れないと宣言することが、安心感の源となっているのです。

4 戦犯の追及

ドイツ政府は、戦争犯罪の容疑者に対しては、どのような態度を取ってきたのでしょうか。

ドイツと日本の間には、戦争犯罪の追及について、大きく異なる点があります。それは、連合国による訴追が終わった後も、ドイツの司法当局が今日に至るまで、大量虐殺などに関わった容疑者の訴追を続けているということです。

西ドイツ政府の検察当局は、1958年に、ルートヴィヒスブルクに「ナチス犯罪追及センター」を設置しました。この機関の役割は、ナチスによる犯罪について、証言や資料を収集、分析し、逃走中の戦争犯罪人に対する。予備捜査を行うことです。

ナチス犯罪追及センターは、1998年までの40年間に、10万7000人の容疑者について捜査を行い、その内7189人が有罪判決を受けています。

ドイツの戦犯訴追の中で特殊な点は、西ドイツ政府が1979年に、計画的で、悪質な殺人に関しては時効を廃止したことです。つまりナチスの戦犯は、生きている限り、捜査の対象となるのです。今でも、80歳を超えた容疑者が、検察庁によって逮捕されて裁判にかけられることが、時々あります。

同時にドイツでは、「司法による過去との対決は十分ではなかった」という声もあります。アウシュビッツで人体実験を行い、多くの市民をガス室へ送り込んだ医師、ヨーゼフ・メンゲレなど、重要な戦争犯罪人を、摘発することができませんでした。また、ナチス時代に裁判官や検察官を務めた人物の多くが、戦後西ドイツで摘発されなかったことも、問題点として指摘されています。

     教育による過去との対決

さてドイツ人は、ナチスのような犯罪集団が再び権力を握ることを防ぐには、歴史教育が極めて重要だと考えています。

私が、日本の中学校や高校で使った歴史教科書では、満州事変から太平洋戦争の終結に至る歴史は、ごくあっさりとしか取り上げられていませんでした。また授業では、中世や江戸時代に力点が置かれ、日中戦争や太平洋戦争の歴史については、詳しく学びませんでした。

これに対しドイツの教科書では、ナチスがドイツを支配していた時代について、詳しい解説が行われ、残酷すぎるのではないかと思われるほどの、写真や証言が載せられています。特にドイツ人が加害者だったという事実が、強調されています。

たとえば、「過去への旅」という教科書では、ナチスの台頭から、敗戦までに72ページを割いています。特にアウシュビッツ強制収容所の所長だったルドルフ・ヘスが、ユダヤ人をどのようにガス室で虐殺したかを描写した、生々しい証言を引用したり、ガス室に向かって歩くユダヤ人の親子の写真を掲載したりしているのが、目につきます。

かつて侵略された国にとっては、教科書の中で、ドイツ人が過去の歴史を美化したり、悲惨さを和らげたりしていないかどうかを知ることは、とても重要です。

このためドイツはすでに50年前に、周りの国々との間で、歴史教科書の内容をお互いに吟味して討論する作業を始めています。

教科書会議の推進役は、ブラウンシュバイクにあるゲオルク・エッカート国際教科書研究所です。

1951年に創設されたこの研究所は、ドイツ外務省と7つの州政府の支援によって運営されています。

この研究所はこれまでに、ポーランド、フランス、イスラエルなど12カ国と、教科書会議を、数百回にわたり、行ってきました。教科書会議では、歴史学者が、相手の国の教科書の記述が偏っていないか、歴史を美化していないかなどについて、意見を交換します。そして両国の文部省や教科書の出版社に、教科書の内容についての勧告を送ります。勧告には拘束力はありませんが、教科書には、勧告の精神が強く反映されています。

私は1989年に、ドイツとポーランドの歴史学者が開いた教科書会議に参加し、討論の模様を取材したことがあります。ポーランドの歴史学者の中には、戦争中にゲシュタポに逮捕されて拷問を受けた上、アウシュビッツ強制収容所に入れられて、生き残った女性もいました。

かつてはドイツ人を憎んでいたというこの女性が、ドイツ人たちと、ドイツ語で歴史について討論しているのを見て、私は、かつての敵国同士が相互理解を深める上で、教科書会議が、重要な役割を果たしてきたことを、強く感じました。

さらに、ドイツにはナチスの犠牲者のための追悼施設や慰霊碑が、全国の数1000か所にありますが、これも、過去を心に刻むための努力の一部です。

たとえば2005年5月に、ドイツ政府は、ナチスに殺害された600万人のユダヤ人を追悼するための、巨大なモニュメントを、ベルリンに完成させました。

ベルリンの中心部にある、1万9000平方メートルの敷地に、2万7000個の、黒い石の立方体がぎっしりと並べられています。その様子は、棺を並べたようにも見えます。ドイツ政府は、深刻な財政赤字にもかかわらず、2700万ユーロ(およそ37億8000万円)をつぎ込み、6年の歳月をかけて、この慰霊碑を作りました。

この慰霊碑があるのは、ブランデンブルク門や、連邦議会議事堂の目と鼻の先の、一等地です。日本でいえば、銀座四丁目か、永田町に相当する場所です。首都の最も目立つ場所に、過去の犯罪についてのモニュメントを設置したことに、歴史を忘れないという姿勢がはっきり表われています。

6・ボランティア団体の活動

政府や企業以外に、NGO・非政府組織も、過去との対決で重要な役割を果たしています。特に、プロテスタント教会系のボランティア団体「償いの証」は最も知られています。この団体については、フォン・ヴァイツゼッカー大統領が、1985年に行った有名な演説「荒れ野の40年」の中でも、触れられています。

ベルリンに本部を持つ「償いの証」は、1958年から2005年までに、のべ1万人のドイツ人の若者たちを、ボランティアとして、イスラエル、フランスなど13の国々に派遣してきました。今も毎年100人から150人の若者が、この団体の仲介によって、外国で働いています。

ボランティアたちは、1年半から2年間外国に滞在します。そして、強制収容所に入れられて病気になったお年寄りの介護活動や、ポーランドなどの強制収容所跡の修復作業、などを行い、ナチスによって被害を受けた人々との対話を通じて、過去の歴史を学びます。

償いの証のボランティア活動に対する、若者たちの関心は高く、毎年志願者の数は、定員の3倍から4倍に達しています。

償いの証が特に重視しているのは、ナチスの問題を本や映画から学ぶだけではなく、ドイツに侵略された国で働いたり、被害者たちと、話し合ったりすることによって、歴史を「生の体験」として心に刻むことです。若者たちは、イスラエルやポーランドで働き、人々と語ることによって、外国には、今もドイツ人を憎んでいる人がいることを知るのです。

興味深いことに、ヨーロッパが鉄のカーテンによって西と東に分割されていた時代に、西ドイツ人たちは、社会主義国であるポーランドで、過去と対決するための努力を行っていました。つまり歴史NGOは、政府に先駆けて、信頼感を獲得するための作業を始めていたのです。

特に償いの証のメンバーは、「ドイツの若者が、ナチスによって被害を受けた人々と、直接討論をすること」を、最も重視しています。「ナチスの恐ろしさを理解していなかった若者たちも、時代の生き証人と対話をすると、考え方が変わる。だから対話は重要だ」という言葉を、私はあるユダヤ人の女性から聞いたことがあります。

また、アウシュビッツを生き延びたあるポーランド人は、「ドイツとポーランド政府は、善隣条約を結んだが、国民同士の具体的な融和の試みがなければ、条約などただの紙切れにすぎない。その意味で、償いの証が行ってきたような仕事こそ、条約を肉付けし、生命を与えるものだ」と述べて、この団体の活動を、高く評価していました。

ドイツの過去との対決姿勢が、ヨーロッパで評価されている理由の一つは、「被害者の視点」を重視していることです。これは、ドイツと日本の歴史問題に対する姿勢が、最も大きく異なる点でもあります。

ドイツでは、ナチスの歴史に関する政府の式典では、必ずナチスの侵略による被害者が招かれ、スピーチを行います。彼らは当然ドイツ人にとって耳の痛いことを言いますが、こうした場を設けることが、ドイツの歴史リスクを減らし、信頼感を生むことにつながっているのです。

私は、日本に駐在したことのある、ドイツ外務省のある幹部から、「日本人は戦争の悲惨さというと、日本人の犠牲者のことを中心に考えている。日本が外国に与えた被害については、あまり考えていない」と言われたことがあります。

我々日本人にとっても、歴史リスクを減らすためには、被害者の視点に配慮し、政府間の非難の応酬だけではなく、被害者との対話を行うことが、重要なのではないでしょうか。

     過去との対決・今後の課題

さてドイツでは、「過去と対決する努力は、まだ十分ではない」という声も聞かれます。

一つは、ネオナチなどの極右勢力の動きです。2004年の時点で、極右組織に属しているドイツ人の数は、およそ4万700人。この国の人口のわずか0・1%にすぎません。それでも、彼らは1990年代に激しい暴力の嵐を巻き起こしたことがあるため、油断することはできません。

1992年には、スキンヘッドなどの極右勢力がドイツ全土で引き起こした暴力事件は、2285件にのぼりました。これは1990年に比べて8倍に増えたことになります。殺害された外国人らの数は、17人にのぼります。

その後警察が取り締まりを強めたことなどにより、極右による暴力事件の件数は大幅に減り、2004年にはおよそ780件となっています。

ネオナチ勢力は、政治活動も強めています。2004年9月に、旧東ドイツのザクセン州で行われた州議会選挙では、ネオナチ政党である国家民主党が、得票率を前回の1・4%から9・8%に伸ばしました。ザクセン州で投票した有権者の内、18歳から24歳の若者の21%が、この党を選んでいます。

経済復興が進まない旧東ドイツでは、失業率が20%近い地域もあり、体制に不満を持つ若者の一部が、ナチスの思想に共鳴しているのです。

極右による犯罪と関連して、ドイツと日本の間に存在する、ナチスに関する見方の違いについて、簡単に触れたいと思います。

ドイツではナチスのシンボルであるハーケンクロイツの旗を公衆の面前で見せたり、右手を斜め前に掲げるナチス式敬礼を行ったり、ヒトラーの著書「我が闘争」を書店で販売したりすることは、法律違反です。

さらに、「アウシュビッツで大量虐殺はなかった」とか、「殺されたユダヤ人の数は、はるかに少なく、600万人というのは嘘だ」などと発言すると、国民扇動罪で罰せられます。

日本におられる皆様には理解しにくいかもしれませんが、ドイツ政府はナチスの思想を絶対悪としており、この点については思想の自由を認めていません。したがって、今日でもナチスの思想をほめたたえたり、その犯罪を弁護したりすることは、タブーなのです。

この認識のギャップの理由は、ドイツ人がナチスの凶悪さを骨身に沁みて知っているのに対し、日本がヨーロッパから遠く離れていることにあります。ほとんどの日本人は、強制収容所などを訪れたり、被害者の話を聞いたりして、ナチスの犯罪の本当の恐ろしさについて直接知る機会を持っていないことが、原因だと思います。

また、「戦後のドイツは、ナチスドイツと縁を切った、全く異なる社会である」という発想が、今日のドイツの原則なのです。ここには、何事につけても白黒をはっきりさせることを好む、ドイツ人の性格も現れています。

また、日本には一部の市民の間に、広島と長崎の原爆被害を、ホロコーストと同列に見ようとする動きがありますが、これもドイツ政府およびイスラエル政府からは、批判されています。ヨーロッパでは、殺人工場を作って600万人のユダヤ人を虐殺した犯罪は、「歴史に例がないもの」というコンセンサスが出来ています。

したがって、これを他の虐殺と同列に見ることは、ホロコーストの相対化、矮小化につながるとして、批判されるのです。広島と長崎の原爆被害がいかに悲惨なものであっても、ホロコーストと同列に語ることは、ヨーロッパやイスラエルではタブーになっています。

このことは、日本では意外と知られていないので、日本人がホロコーストについて語る時には、注意する必要があると思います。

さてドイツが統一されてからは、一部の知識人の間で、過去と対決する努力を、疑問視したり、「ドイツ人も被害者だった」という視点を強調したりする動きが見られます。

たとえば1998年にマルティン・ヴァルザーという作家は、ある講演の中で「マスコミによってナチスの犯罪を何度も見せられると、目を背けたくなる」と述べ、過去の問題が、ドイツ人を批判するために利用されていると主張しました。

この発言は、ドイツの有力な知識人が、戦後初めて、過去との対決の努力を公然と批判したものとして、重視されています。

この講演以降、「ドイツ人は加害者だっただけではなく、被害者でもあった」という主張をこめた本が、次々に出版されるようになりました。

たとえば、ドイツでクローズアップされているのが、ドイツ市民の追放問題です。現在はポーランドの一部であるシレジア地方や、現在ロシアの一部である東プロシャ地方は、かつてドイツ帝国の一部でした。戦争の後半から戦後にかけて、現在の中部ヨーロッパ、東ヨーロッパからおよそ1700万人のドイツ人が追放されて財産を失い、その内211万人が死亡したり行方不明になったりしています。

この問題を公然と追及することは、統一前のドイツではあまり行われませんでした。しかし現在では、この問題が以前よりも積極的に議論されるようになりました。

つまり、ドイツが統一によって、戦後初めて国家主権を回復して以来、これまでタブーだった「ドイツ人被害者論」が、社会の一部で頭をもたげているのです。まだ社会の少数派であるとはいえ、統一前には目立たなかった動きです。

     結び

これまでお話ししましたように、ドイツ人は、多額の費用と時間、エネルギーを投じて、過去との対決を行ってきました。その結果、ドイツは完璧とは言えないまでも、歴史リスクを低い水準に抑えることに成功しています。

また、かつて一部のヨーロッパ人の間にはドイツについて悪いイメージがありましたが、戦後のドイツは、そうした先入観を払拭することに成功しつつあるようです。

アメリカの市場調査機関、ハリス・インターアクティブが去年行った、ドイツ人のイメージに関する調査によりますと、かつては不倶戴天の敵だったフランス人の回答者の70%が、「ドイツ人について良い印象を持っている」と答えています。

もしもドイツが過去との対決を怠っていたら、東西ドイツが統一される際に、フランスやポーランド、オランダなどの周りの国々は、ヨーロッパの中心に大国ドイツが復活することについて、強く反対していたはずです。またドイツはボスニアや、アフガニスタンなどに平和維持軍を積極的に派遣していますが、過去との対決をおろそかにしていたら、ドイツ軍の国外への派兵についても、懸念する声が強くなっていたに違いありません。

ドイツは1999年に、コソボでのセルビア軍による虐殺や住民追放などに歯止めをかけるため、NATO(北大西洋条約機構)がセルビアに対して行った軍事攻撃に参加しました。ドイツが戦後、他の国への攻撃に加わったのは、初めてのことです。

ドイツ国内の左派勢力は、この攻撃に強く反対しましたが、周りの国々からはドイツの参戦に批判の声は高まりませんでした。戦後60年間の過去との対決を通じて、ドイツがもはや独り歩きはせず、同盟国と共同歩調を取るということを、理解させることができたからです。

現在ドイツは欧州連合のメンバーとして、重要な地位を占めていますが、その前提の一つは、彼らが過去60年間に行ってきた、歴史リスクを減らす努力だったのです。

またドイツは、アメリカのイラク攻撃に強く反対し、現在もイラクには戦闘部隊を送っていません。ドイツ人の間には、戦争や軍隊そのものを嫌う、平和主義が深く浸透していますが、その背景には、ナチスの暴力支配に対する反省があると思います。

その意味で、歴史と対決する努力は、ドイツの国益を守ることに貢献したと言えると思います。逆に言えば、歴史リスクを放置すると、国益を損なう恐れがあります。

私は、ドイツ人の過去との対決の努力には、彼らの国民性の一つである、合理的精神も表われていると思います。ドイツ人は、物事に白黒をつけること、そして論理的な思考を好み、日本人ほど強く感情に左右されません。彼らは、「英霊が犠牲となってくれたから、今のドイツがある」などとは考えず、自国が犯した罪は罪であると認める傾向が強いのです。

ドイツで暮らしてみるとわかりますが、ドイツ人は、日常生活の中では、なかなか自分の非を認めず、謝らない民族です。暮らしの中ではすぐ謝る、我々日本人とは、正反対です。しかしこと歴史問題については、ドイツ政府は、徹底的に謝っています。その背景には、道義的な責任感と並んで、謝罪が国益につながるという、論理的な判断があると思います。

つまり、周りの国々の信頼を得ることによって、長期的にドイツの国益を守るという、戦略的な発想もあったと考えられます。

さらに、遺族会や戦友会には、政治的な影響力はほとんどありません。ドイツ人はヨーロッパでも、最も個人主義的な性格が強い民族です。このことも、ドイツ人が過去に犯した罪を、きっぱりと糾弾する上では重要な要素になっています。日本とは異なり、家族や組織、集団のしがらみが比較的少ない社会なのです。

ただし、地方議会における極右の躍進など、課題は多く残っており、過去との対決はまだ終わっていません。特に、「ドイツ人被害者論」が語られ始め、迫害の体験者が少なくなっていく中、過去の対決についての関心をどう維持するかは、大きな課題です。

過去との対決を語る上で、重要なドイツ語の言葉に、「Erinnerungskultur」(エアインネルングス・クルトゥーア)という概念があります。直訳すれば「思い起こす文化」ということになりますが、具体的にはナチスが犯した罪や、虐殺事件、ドイツ人の責任を思い出し、心に刻む姿勢、社会のありかたを意味しています。

意訳すれば「過去を水に流さない文化」とも言えるかもしれません。

私は今日のドイツ社会の大部分には、この「過去を水に流さない文化」が根づいていると思います。

ルワンダ、ボスニア、イラクで起きたように、第二次世界大戦が終わってからも、「人間が人間に対して狼になる」虐殺事件や、拷問などの人権侵害は、後を絶ちません。その意味でナチスの問題は、ドイツに限らず、世界中の人間に今も重い問いを投げかけています。

ドイツや欧州連合が、アメリカのグアンタナモ収容所を強く批判し、対テロ戦争においても人権の尊重を求める背景にも、ナチスの犯罪に記憶があるのです。

前の世代が犯した罪を忘れずに記憶することは、国家が歴史リスクを減らす上で必要であるだけではなく、すべての人間にとって、未来へ向けての義務の一つだと思います。

ご清聴ありがとうございました。