エグゼクティブ・パートナー講演

ドイツは過去とどう向き合ってきたか                熊谷 徹

2007年7月9日 

(熊谷)

ただいまご紹介に預かりました熊谷と申します。本日は、皆様の勉強会にお招き下さり、心から感謝いたします。

1 はじめに

第二次世界大戦が終わってから60年が経ちました。しかし、おととし中国で反日デモが起きたことに表われていますように、日本と中国、韓国との間には、歴史の認識をめぐって、深刻な意見の違いがあります。安倍首相の就任によって、日中間で、お互いの国での首脳会談は再開されましたが、問題の根源は解決していません。

ドイツと日本の戦後の歴史には、似ている点があります。二つの国はともに、第二次世界大戦で敗れ、連合軍に占領されました。また戦争中の行動について、周りの国々から批判されたことも、似ています。しかし日本とドイツは戦後、歴史についての反省と、若い世代に過去についての情報を伝えるという面では、異なる道を歩んできました。

もっとも、ドイツと日本が置かれた環境には、歴史的、社会的、政治的に大きな違いがあります。また戦争犯罪の規模や、内容、動機にも大きな違いがあります。このため、両国の「過去との対決」を単純に比較することはできません。

ただし、敗戦から60年が経過した今、ドイツを取り巻く国際環境と、日本を取り巻く国際環境を、「歴史認識をめぐるトラブル」という角度から比べることは、可能だと思います。

ドイツ政府は、周りの国々との間で、歴史認識をめぐる深刻なトラブルを、日本ほど多くは抱えていません。

ドイツは過去60年間に、道義的な責任感に基づき、金銭による補償、首相や大統領による謝罪、教育、戦争犯罪人に対する刑事訴追、NGOによるボランティア活動など、様々な形で、かつての被害者たちの信頼を回復するための努力を続けてきました。

 

ドイツは10カ国と国境を接しており、資源に乏しいため、貿易に依存しています。こうした国が生き残るためには、過去の問題と批判的に取り組むことが、不可欠だったのです。

この結果ドイツは、歴史認識をめぐって、外国から批判されることが、日本よりも少なくなっています。

もちろん、歴史認識は民族の感情にからむ問題ですから、どんなに過去と真剣に取り組んでいても、かつての被害者から批判される可能性はあります。

それでも、ドイツのように過去の問題に執拗に取り組んできた国は、他の国から批判された時に、「自分たちは、これだけの努力をしてきた」と言って、具体的な証拠を見せながら、論理的に反論することができます。

つまり彼らは、歴史認識が原因となって周りの国々から批判されるリスクを減らす努力を行ってきたのです。

歴史認識についてドイツは、周辺の国々から、一定の信頼感を得ています。これに対し、日本は周辺の国との間で、いまだに歴史をめぐるトラブルに悩んでいます。その原因の一つは、日本とドイツの、過去への対応の仕方が大きく違っていることだと思います。

ドイツは、ベルリンの壁が崩壊してから、わずか1年後に東西ドイツの統一を達成することができました。また、ユーロの導入を積極的に推進するなど、ヨーロッパの統合を進める上でも、重要な役割を果たしています。

もしもドイツが戦後60年間に、過去の問題と真剣に取り組むことを怠っていたら、現在ほど周りの国々からの信頼を得ることができなかったでしょう。そして、ドイツ統一やヨーロッパの統合も、今ほど進んでいないに違いありません。

つまり、ある国の歴史に対する姿勢は、決して過ぎ去った問題ではなく、今日、そして未来の国のあり方に、大きく影を落とすのです。では、ドイツはどのようにして、過去と対決してきたのでしょうか。

2 ドイツ政府による補償

ナチスの犯罪によって、最も大きな被害を受けたのは、ユダヤ人です。1939年の時点で、ドイツ、ソ連、ポーランドなどヨーロッパの20カ国に、830万人のユダヤ人が住んでいましたが、そのうち72%にあたる、およそ600万人が殺害されています。

この600万人という数字については、ドイツ政府と、被害者であるユダヤ人、そして侵略を受けた国々との間で、一種の合意が出来上がっています。日本と中国の間に見られるような、死者の数に関する意見の違いはありません。

1952年9月に、アデナウアー首相はイスラエルと、ユダヤ人団体との間で、「ルクセンブルク協定」に調印しました。この協定に基づき、西ドイツ政府は12年間にわたり、イスラエル政府などに対し、合わせて35億マルクを支払いました。当時の35億マルクを今日の貨幣価値に換算しますと、およそ3500億円に相当します。

しかしルクセンブルク協定は、ドイツが行ってきた賠償の氷山の一角にすぎません。ドイツは、この他にもいわゆる「連邦補償法」や二国間協定によって、賠償金を支払い続けてきました。

ドイツ政府が1998年にまとめた統計によりますと、ドイツが1952年からの46年間に支払った補償金は、1021億マルクにのぼります。ユーロ導入前にドイツ政府がまとめた資料なので、マルクを使っていることをご了承下さい。

1021億マルクを今日の貨幣価値に換算しますと、2000億マルク、およそ10兆円に相当します。

賠償を行ってきたのは政府だけではありません。2000年8月、ドイツ連邦政府と、ドイツ企業およそ6400社は、ナチスの支配下で強制労働などの被害を受けた市民のために、補償基金を創設しました。補償基金は、政府と企業が半分ずつ資金を出し合って作られました。

東ヨーロッパやロシアに住んでいる被害者たちの多くは、強制労働についてドイツ企業や政府に補償を求めても、見舞金を除けば、長い間、本格的な補償を受けることができませんでした。

しかし1998年に、アメリカに住む強制労働の被害者たちが、シーメンス、フォルクスワーゲンなどの大手企業に対して、補償を求める集団訴訟を起こしました。また、ナチスに殺された人の遺族が、銀行に対して、休眠口座の預金を返すよう求めたり、生命保険会社に対して、保険金の支払いを求めたりするケースが、多く報告されるようになりました。

ドイツ企業は、経済のグローバル化が進む中、訴訟の標的となることによって、イメージに傷がつけられることを恐れました。特に重要なマーケットであるアメリカでの活動に悪い影響が出ることを恐れて、補償金の支払いに踏み切ったのです。

この基金から、これまでに166万人の被害者に対して、およそ43億7000万ユーロ(約7167億円)の補償金が支払われました。

ドイツ政府は、「企業はこの補償基金によって、訴訟の危険から完全に免れられるわけではない」としています。しかしドイツ企業は少なくとも「過去の責任から目をそむけない」という姿勢を一応示すことができたと言えます。

このようにドイツ政府は、歴史の舞台裏で、戦後一貫して金銭的な補償を行ってきました。しかし、「ユダヤ人らが味わった苦しみは、金では絶対に償うことはできない」という態度を取っており、10兆円を超える補償の事実については、公の場ではあまり強調していません。

そしてドイツが行ってきた努力は、金銭による補償だけではありませんでした。いやむしろ、お金による補償以外の努力が、周りの国々の信頼を回復する上で、大きく貢献していると思います。まず政治家たちの態度を見てみましょう。

3 ブラント首相の歴史認識

ドイツの東隣の国ポーランドは、ナチスによって最も大きな被害を受けた国の一つです。1939年のポーランド国民3600万人の内、およそ17%にあたる600万人が死亡しています。特にポーランドにいたユダヤ人の85%が、ナチスによって殺害されました。

1970年に、西ドイツの首相だったヴィリー・ブラント氏は、ワルシャワ・ゲットーの慰霊碑を訪れました。これは、ユダヤ人たちがナチスに対して蜂起し、多くの市民が殺害された事件を記憶するために作られた慰霊碑です。

ブラント首相は、この慰霊碑に花を捧げた後、突然、ひざまずきました。西ドイツの首相が、慰霊碑の前で膝を折った映像は、全世界をかけめぐりました。この映像は、謝罪の気持ちを、全身で表現する「新しいドイツ人」の姿を、ユダヤ人を初めとする、被害者たちに対して強く印象づけたのです。

私は1989年にボンでブラント元首相に、歴史認識についてインタビューをしました。その時に聞いたブラント元首相の、次の言葉が、今も私の胸に残っています。「自分の国の過去について、批判的にとらえればとらえるほど、周りの国々との友好関係を深めることができる。若い人々には、ナチスの犯罪について責任を負わせてはならない。しかし彼らも歴史の流れから抜け出すことはできないのだから、ドイツの歴史の暗い部分についても、学ばなくてはならない」。

こうしたブラント元首相の歴史認識は、今も、ドイツ政府によって脈々と受け継がれています。ドイツの首相、大統領、外務大臣にとって、アウシュビッツ強制収容所の跡や、エルサレムにあるホロコースト博物館(ヤド・ヴァシェム)を訪れて、犠牲者に追悼の意を表し、謝罪の言葉を述べることは、常識となっています。

2005年は、アウシュビッツ強制収容所がソ連軍によって解放されてから60年目にあたりました。この時にベルリンで行われた追悼式典で、当時首相だったシュレーダー氏が行った演説の一部を、引用します。

「私はアウシュビッツで殺された人々、そして収容所の地獄を生き延びた皆さんの前で、恥の感情を抱いています。アウシュビッツ、チェルムノ、トレブリンカ、マイダネクという強制収容所の名前は、ヨーロッパとドイツの歴史に永遠に結びつけられていくでしょう。何100万人もの子ども、女性、男性たちが、ドイツの親衛隊員らによって、ガスで窒息させられ、飢え死にさせられ、射ち殺されました。

(中略)

今日のドイツ人の大部分は、虐殺について直接責任はありません。しかし、ナチスの犯罪について記憶することは、ドイツ人の道徳的な義務です。我々は犠牲者、その遺族だけでなく我々自身のためにも、この義務を遂行しなくてはならないのです。歴史を忘れるという誘惑は大きいですが、我々は誘惑には絶対に負けません」。

ここまでがシュレーダー元首相の言葉です。

ここには、過去を心に刻み、被害者に謝罪することが、ドイツの国是であり、外交政策の根幹であるという発想が、にじみ出ています。被害を受けた国や市民にとっては、ドイツが過去の悪い点を忘れないと宣言することが、安心感の源となっているのです。

     教育による過去との対決

さてドイツ人は、民族虐殺という大惨事が繰り返されることを防ぐには、歴史教育が極めて重要だと考えています。

私が、日本の中学校や高校で使った歴史教科書では、満州事変から太平洋戦争の終結に至る歴史は、ごくあっさりとしか取り上げられていませんでした。また授業では、中世や江戸時代に力点が置かれ、日中戦争や太平洋戦争の歴史については、詳しく学びませんでした。

これに対しドイツの教科書では、ナチスがドイツを支配していた時代について、詳しい解説が行われ、子どもにとっては、残酷すぎるのではないかと思われるほどの、写真や証言が載せられています。特にドイツ人が加害者だったという事実が、強調されています。

たとえば、「過去への旅」という教科書では、ナチスの台頭から、敗戦までに72ページを割いています。特にアウシュビッツ強制収容所の所長だったルドルフ・ヘスが、ユダヤ人をどのようにガス室で虐殺したかを描写した、生々しい証言を引用したり、ガス室に向かって歩くユダヤ人の親子の写真を掲載したりしているのが、目につきます。

かつて侵略された国にとっては、教科書の中で、ドイツ人が過去の歴史を美化したり、悲惨さを和らげたりしていないかどうかを知ることは、とても重要です。

日本でも最近韓国の歴史学者との間で、歴史の共同研究委員会が開かれていますが、ドイツはすでに50年前に、周りの国々との間で、歴史教科書の内容をお互いに吟味して討論する作業を始めています。

教科書会議の推進役は、ブラウンシュバイクという町にあります、ゲオルク・エッカート国際教科書研究所です。

1951年に創設されたこの研究所は、ドイツ連邦政府の外務省と7つの州政府の支援によって運営されています。

この研究所はこれまでに、ポーランド、フランス、イスラエルなど12カ国と、教科書会議を、数百回にわたり、行ってきました。教科書会議では、歴史学者が、相手の国の教科書の記述が偏っていないか、歴史を美化していないかなどについて、意見を交換します。

そして二つの国の文部省や教科書の出版社に、教科書の内容についての勧告を送ります。勧告には拘束力はありませんが、歴史教科書には、勧告の精神が強く反映されています。

私は1989年に、ドイツとポーランドの歴史学者が開いた教科書会議を取材したことがあります。ポーランドの歴史学者の中には、戦争中にゲシュタポに逮捕され、アウシュビッツ強制収容所に入れられて、生き残った女性もいました。この女性の腕には、ゲシュタポが行った拷問の傷痕と、ナチスが刻んだ登録番号の入れ墨が、はっきりと残っていました。

かつてはドイツを憎んでいたというこの女性が、ドイツ人たちと、ドイツ語で歴史について討論しているのを見て、私は、かつての敵国同士が相互理解を深める上で、教科書会議が、重要な役割を果たしてきたことを、強く感じました。

さらに、ドイツにはナチスの犠牲者のための追悼施設や慰霊碑が、全国の数1000か所にありますが、これも、過去を忘れることを戒める作業の一部です。

たとえば2005年5月に、ドイツ政府は、ナチスに殺害された600万人のユダヤ人を追悼するための、巨大なモニュメントを、ベルリンに完成させました。

ベルリンの中心部にある、1万9000平方メートルの敷地に、2万7000個の、黒い石の立方体がぎっしりと配置されています。その様子は、棺桶を並べたようにも見えます。ドイツ政府は、深刻な財政赤字にもかかわらず、2700万ユーロ(およそ44億円)をつぎ込み、6年の歳月をかけて、この慰霊碑を作りました。

この慰霊碑があるのは、ブランデンブルク門や、連邦議会議事堂の目と鼻の先の、一等地です。日本でいえば、銀座四丁目や、永田町に相当する場所です。首都の最も目立つ場所に、過去の犯罪についてのモニュメントを設置したことに、歴史を忘れないという姿勢がはっきり表われています。

またベルリンの西側の繁華街であるクアフュルステンダムという大通りにも、「私たちが決して忘れてはならない恐怖の場所」と書かれた看板が20年以上前から立っており、アウシュビッツなど強制収容所の名前が、大きな字で書いてあります。ここは、東京でいえば新宿駅前にあたる場所です。

これ以外にもドイツでは、ダッハウやベルゲンベルゼンなどの強制収容所の跡が、博物館として公開されています。彼らは、歴史の恥の部分を、克明に保存・記録して、全世界に公開しているのです。それは自虐史観の現われではなく、起きてしまった犯罪を、否定できない客観的な事実として後世に伝えるという、さめた態度であります。

興味深いことに、日本の自衛隊にあたるドイツ連邦軍の兵士たちにも、こうした強制収容所の跡地を訪れて、過去について学ぶことが義務付けられています。

また政府は過去の問題について、国民に今も積極的な啓蒙活動、広報活動を行っています。連邦内務省の中に「連邦政治教育センター」という機関があります。国民はナチスの過去の問題について、資料を請求すると、このセンターから無料で本やパンフレットをもらうことができます。日本では政治教育という言葉には、どことなく悪いイメージがありますが、ドイツ語ではあまりマイナスのイメージはありません。

むしろ、政府はナチスの思想が再び広がることを防ぐために、「なぜナチスが悪なのか」ということについて、国民に積極的に情報を与えていく必要があると考えているのです。

さきほど、ドイツ企業が補償基金に参加していると申し上げましたが、積極的な広報活動によって、過去についての反省の念を表わしている企業もあります。

ドイツで最大の自動車メーカーであるフォルクスワーゲン社は、ヒトラーの指示で「国民車」つまりフォルクスワーゲンを開発しました。また軍用車両やミサイルの部品の生産を通じて、ナチスの戦争政策に深く関わっていました。収容所に入れられていた市民に、強制労働をさせたことも知られています。

フォルクスワーゲン社は、歴史学者に依頼して、1996年に、「フォルクスワーゲン社が、ナチスとどう関わったか、外国人たちにどのようにして強制労働を行わせたか」について、1000ページを超える研究報告書を出版させました。経営陣は、記録写真や内部資料などを積極的に歴史学者に提供し、研究に全面的に協力しました。

つまりフォルクスワーゲン社は、ナチス時代の暗い部分を、自ら公表することによって、「過去のあやまちから目をそむけない」という姿勢を示しているのです。経営陣は、過去の悪を隠したり否定したりするのではなく、間違いを認めて反省の態度を表わす方が、長期的には企業のためになると判断したのです。

つまり「攻撃は最大の防御」という企業広報の鉄則を実践したのです。

また、新聞社やテレビ局などの役割も、重要です。ドイツのマスコミは、ナチスや第二次世界大戦に関する話題を、日本に比べるとはるかに頻繁に取り上げます。敗戦から60年経った今でも、メディアを通じて、ドイツ人が加害者だったという事実が、繰り返し強調されるのです。

5 戦犯の追及

もう一つ見逃してはならないのは、ドイツ政府の戦争犯罪に対する姿勢です。

1945年11月に連合国はニュルンベルクで軍事裁判を開き、ナチスドイツの高官らに死刑を含む有罪判決を言い渡しました。勝者が敗者を裁いたという点は、日本の極東軍事裁判と似ています。

しかし、ドイツと日本の間には、戦争犯罪の追及について、大きく異なる点があります。それは、連合国による訴追が終わった後も、ドイツの司法当局が今日に至るまで、大量虐殺などに関わった容疑者の訴追を続けているということです。

西ドイツ社会も当初はナチスの過去と直面することを避けてきました。しかし、1963年にフランクフルト・アム・マインで行われた「アウシュビッツ裁判」をきっかけに、善良な市民が収容所や戦場で、虐殺を行っていた実態に触れたのです。

西ドイツ政府の検察庁は、1958年に、ルートヴィヒスブルクという町に「ナチス犯罪追及センター」を設置しました。この機関の役割は、ナチスによる犯罪について、証言や資料を収集、分析し、逃走中の戦争犯罪人に対する。予備捜査を行うことです。

ナチス犯罪追及センターは、1998年までの40年間に、10万7000人の容疑者について捜査を行い、その内7189人が有罪判決を受けています。

ドイツの戦犯訴追の中で特殊な点は、西ドイツ政府が1979年に、悪質な殺人に関しては時効を廃止したことです。つまりナチスの戦犯は、生きている限り、捜査の対象となるのです。今でも、80歳を超えた容疑者が、検察庁によって逮捕されて裁判にかけられることが、時々あります。

 

一方では、司法による戦犯追及は不十分だったという批判もあります。たとえばアウシュビッツでユダヤ人を選別し、ガス室に送り込んだ親衛隊の医師ヨーゼフ・メンゲレのような、重要な戦犯を摘発することができませんでした。また、戦争中に裁判官や検事としてナチスに反対する人々を死刑台に送った人々が、戦後も西ドイツで一時法曹関係者として活動していたという事実も指摘されています。

6・ボランティア団体の活動

政府や企業以外に、NGO・非政府組織も、過去との対決で重要な役割を果たしています。特に、プロテスタント教会系のボランティア団体「償いの証」は最も知られています。この団体については、フォン・ヴァイツゼッカー大統領が、1985年に行った有名な演説「荒れ野の40年」の中でも、触れています。

ベルリンに本部を持つ「償いの証」は、1958年から2005年までに、のべ1万人のドイツ人の若者たちを、ボランティアとして、イスラエル、フランスなど13の国々に派遣してきました。今も毎年100人から150人の若者が、この団体の仲介によって、外国で働いています。

ボランティアたちは、1年半から2年間外国に滞在します。そして、強制収容所に入れられて病気になったお年寄りの介護活動や、ポーランドなどの強制収容所跡の修復作業、などを行い、ナチスによって被害を受けた人々との対話を通じて、過去の歴史を学びます。

償いの証のボランティア活動に対する、若者たちの関心は高く、毎年志願者の数は、定員の3倍から4倍に達しています。

償いの証が重視しているのは、ナチスの犯罪について、本や映画から学ぶだけではなく、ドイツに侵略された国で働いたり、被害者たちと、話し合ったりすることによって、歴史を「生の体験」として心に刻むことです。若者たちは、イスラエルやポーランドで働くことによって、外国には、今もドイツ人を憎んでいる人がいることを肌で体験するのです。

さらに償いの証は、ドイツの若者たちのために、ポーランドやロシア、ウクライナなどにある強制収容所の跡や、虐殺の現場を訪れる学習旅行も実施しています。

私は1989年に、ベルリンの職業訓練学校の生徒たちが、1週間にわたってアウシュビッツ強制収容所で行った学習旅行に同行しました。彼らは、博物館を訪れるだけでなく、収容所の跡で草取りなどの作業を行ったり、収容所に入れられていた被害者から、話を聞いたりしていました。

 

また1992年は、ナチスドイツ軍がソビエト連邦への侵略を始めた年から50年目にあたりましたが、この年に償いの証は、ウクライナとベラルーシで、ドイツ軍による虐殺の現場を訪れる学習旅行を企画しました。右の人は、ロシア戦線で戦ったことのある、元ドイツ兵です。左の女性は、ウクライナでの虐殺で生き残った女性です。

アウシュビッツを生き延びたあるポーランド人は、「ドイツとポーランド政府は、善隣条約を結んだが、国民同士が具体的に融和しようとしなければ、条約などただの紙切れにすぎない。その意味で、償いの証が行ってきたような仕事こそ、条約を肉付けし、生命を与えるものだ」と述べて、この団体の活動を、高く評価していました。

政府主導の補償や啓蒙活動とは全く別の次元で、草の根のNGOが,半世紀近くにわたり、歴史を心に刻む作業を続けてきたことに、ドイツ人の過去と対決する作業が、いかに社会に深く浸透しているかを、強く感じます。

     過去との対決・今後の課題

さてドイツ人は様々な分野で、歴史と向き合ってきましたが、「その努力は、まだ十分ではない」という声も聞かれます。

一つは、ネオナチなどの極右勢力の動きです。2004年の時点で、極右組織に属しているドイツ人の数は、およそ4万700人。この国の人口のわずか0・1%にすぎません。それでも、彼らは1990年代に激しい暴力の嵐を巻き起こしたことがあるため、油断することはできません。

1992年には、スキンヘッドなどの極右勢力がドイツ全土で引き起こした暴力事件は、2285件にのぼりました。これは1990年に比べて8倍に増えたことになります。殺害された外国人らの数は、17人にのぼります。

その後警察が取り締まりを強めたことなどにより、極右による暴力事件の件数は大幅に減り、2004年にはおよそ780件となっています。

ネオナチ勢力は、政治活動も強めています。2004年9月に、旧東ドイツのザクセン州で行われた州議会選挙では、ネオナチ政党である国家民主党が、得票率を前回の1・4%から9・8%に伸ばしました。ザクセン州で投票した有権者の内、18歳から24歳の若者の21%が、この党を選んでいます。

経済復興が進まない旧東ドイツでは、失業率が20%近い地域もあり、体制に不満を持つ若者の一部が、ナチスの思想に共鳴しているのです。

極右による犯罪と関連して、ドイツと日本の間に存在する、ナチスに関する見方の違いについて、簡単に触れたいと思います。

ドイツではナチスのシンボルであるハーケンクロイツの旗などを公衆の面前で見せたり、右手を斜め前に掲げるナチス式敬礼を行ったり、ヒトラーの著書「我が闘争」を一般の書店で販売したりすることは、全て法律違反です。

さらに、「アウシュビッツで大量虐殺はなかった」とか、「殺されたユダヤ人の数は、はるかに少なく、600万人というのは嘘だ」など発言すると、国民を扇動した罪で罰せられます。

日本におられる皆様には理解しにくいかもしれませんが、ドイツ政府はナチスの思想を絶対悪としており、この点については思想の自由を認めていません。したがって、今日でもナチスの思想をほめたたえたり、その犯罪を弁護したりすることは、タブーなのです。

日本では時折、「ナチスは失業問題を解決したり、高速道路を作ったりしており、良いこともした」という意見が聞かれますが、こういう発言をすると、ドイツ社会では、ナチスの崇拝者と見られ、全く受け入れられません。

この認識のギャップの理由は、ドイツ人がナチスの凶悪さを骨身に沁みて知っているのに対し、日本がヨーロッパから遠く離れていることにあります。ほとんどの日本人は、強制収容所などを訪れたり、被害者の話を聞いたりして、ナチスの犯罪の本当の恐ろしさについて直接知る機会を持っていないことが、原因だと思います。

また、「戦後のドイツは、ナチスドイツと縁を切った、全く異なる社会である」という発想が、今日のドイツの原則なのです。ここには、何事につけても白黒をはっきりさせることを好む、ドイツ人の性格も現れています。

ドイツは、日本と異なり、「イエスかノーか」の社会なのです。

また、日本には一部の市民の間に、広島と長崎の原爆被害を、ホロコーストと同列に見ようとする動きがありますが、これもドイツ政府およびイスラエル政府からは、批判されています。欧州では、殺人工場を作って600万人のユダヤ人を虐殺した犯罪は、「歴史に例がないもの」というコンセンサスが出来ています。

したがって、これを他の虐殺と同列に見ることは、ホロコーストの相対化、矮小化につながるとして、批判されるのです。広島と長崎の原爆被害がいかに悲惨なものであっても、ホロコーストと同列に語ることは、ヨーロッパやイスラエルではタブーになっています。

たとえばドイツの極右は、ドレスデンに対して連合軍が行った空襲を、「爆撃によるホロコースト」と呼んでいますが、こうした比較は政府から強く批判されています。

このことは、日本では意外と知られていないので、私たち日本人がホロコーストについて語る時には、こうした点に注意する必要があると思います。

さてドイツに住むユダヤ人たちの間には、「ドイツ社会の一部で、反ユダヤ主義的な発言が、目立つようになった」という意見があります。

2000年8月以来、ガザ地区、ヨルダン川西岸地区では、パレスチナ人とイスラエル軍部隊の間で、激しい戦闘がほぼ4年間にわたり繰り広げられました。

「第2のインティファーダ」と呼ばれるこの紛争では、4000人のパレスチナ人が死亡し、イスラエル側にも、自爆テロなどによって、1000人を超える犠牲者が出ました。

イスラエルが軍事的には優勢であり、テロ組織の指導者に対する暗殺も行ったことなどから、ドイツなど、ヨーロッパの市民の間では、イスラエル政府に対して、批判的な感情が強まりました。同時に、ドイツの極右や、一部の保守勢力が、反ユダヤ主義的な発言を行い始めたのです。

社会の一部に反ユダヤ主義が見られるのはドイツだけではなく、フランスなどでも似たような現象があります。ドイツ政府はこうした動きに対抗するため、ベルリンで全欧安保協力機構(OSCE)とともに、各国の外務大臣を招いて、反ユダヤ主義に対抗するための国際会議を開くなどしています。

またドイツが統一されてからは、一部の知識人の間で、過去と対決する努力を、疑問視したり、「ドイツ人も被害者だった」という視点を強調したりする動きが強まっています。たとえば1998年にマルティン・ヴァルザーという作家は、ある講演の中で「マスコミによってナチスの犯罪を何度も見せられると、目をそむけたくなる」と述べ、過去の犯罪がドイツ人を批判する道具として利用されていると主張しました。

この発言は、ドイツの有力な知識人が、戦後初めて、過去との対決の努力を公然と批判したものとして、重視されています。

この講演以降、「ドイツ人は加害者だっただけではなく、被害者でもあった」という主張をこめた本が、次々に出版されるようになりました。

市民の間でも、「過去に起きてしまったことについては反省するが、ナチスの犯罪についてのマスコミの取り上げ方は、ちょっと行き過ぎなのではないか」という声を最近耳にするようになってきました。

つまり、ドイツが統一によって、戦後初めて国家主権を回復して以来、これまでタブーだった「ドイツ人被害者論」が、社会の一部で頭をもたげているのです。まだ社会の少数派であるとはいえ、統一前には目立たなかった動きです。

     結び

さて過去60年間にドイツ人は、多額の費用と時間、エネルギーを投入して、過去との対決を行ってきました。その中心にあったのは、道義的な責任感です。同時に、彼らは、ヨーロッパの中心に位置する貿易立国であるため、周りの国々との関係を改善するためには、歴史問題を放置しておくことはできなかったのです。

ドイツでは、勤労者の3分の1が貿易に依存しています。

私は、ドイツ人の過去との対決の努力には、彼らの国民性の一つである、合理的精神も表われていると思います。ドイツ人は、物事に白黒をつけることを好み、日本人ほど強く感情に左右されません。彼らは、「英霊が犠牲となってくれたから、今日のドイツがある」などとは考えず、自国が犯した罪は罪であると認める傾向が強いのです。

私は17年前からドイツに住んでいます。ドイツで暮らしてみるとわかりますが、ドイツ人は日常生活の中では、なかなか自分の非を認めようとせず、謝ることが日本人よりも少ない民族です。暮らしの中ではすぐ謝る、私たち日本人とは正反対と言えるかもしれません。しかしこと歴史問題については、ドイツ人は積極的に謝っています。

その背景には、まず道義的な責任感があります。さらに、謝罪が国益につながるという、論理的で冷静な判断もあったと思います。つまり、謝罪を通じて周りの国々の信頼を得ることによって、長期的にドイツの国益を守るという、戦略的な考え方もあったと思われます。

さらに、遺族会や戦友会には、政治的な影響力はほとんどありません。ドイツ人はヨーロッパでも、最も個人主義的な性格が強い民族です。このことも、ドイツ人が過去に犯した罪を、きっぱりと糾弾する上では重要な要素になっています。日本とは異なり、家族や組織、集団のしがらみが比較的少ない社会なのです。

ただし、極右の躍進や反ユダヤ感情の高まりなど、課題は多く残っており、過去との対決はまだ終わっていません。特に、「ドイツ人被害者論」が高まり、迫害の体験者が少なくなっていく中、過去の対決についての関心をどう維持するかは、大きな課題です。

過去との対決を語る上で、重要なドイツ語の言葉に、「Erinnerungskultur」(エアインネルングス・クルトゥーア)という概念があります。直訳すれば「思い起こす文化」ということになりますが、具体的にはナチスが犯した罪や、個々の虐殺事件、ドイツ人の責任を思い出し、心に刻む習慣、社会のありかたを意味しています。

意訳すれば、「過去を水に流さない文化」と呼ぶこともできます。

私はほとんどのドイツ人の間には、この「過去を水に流さない文化」が根づいていると思います。

そして、ナチズムを憎み、被害者を思う態度が、ドイツ人のアイデンティティーの一つになっていると言っても、過言ではないと思います。

ベトナムや、ルワンダ、ボスニア、イラクの例に表われているように、第二次世界大戦が終わってからも、「人間が人間に対して狼になる」虐殺事件や拷問など人権侵害は、後を絶ちません。アメリカでは、同時多発テロのような事件を防ぐためには、テロリストと思われる容疑者を拷問にかけることも許されるべきだという意見すら、出始めています。

これに対し、ドイツや欧州連合がアメリカのグアンタナモ収容所を強く批判し、対テロ戦争でも人権の尊重を求めている背景にも、60年前のナチスの犯罪に対する反省があるのです。

さらに、欧州憲法の草案の中にも、「人間の尊厳は不可侵である」という言葉があります。これは、ドイツの憲法であります基本法にも使われている言葉で、背景にはナチスの犯罪に対する反省があります。この憲法草案は、フランスとオランダにおける国民投票で否決されましたが、私は長期的に見れば何らかの形で採用されると考えています。

その意味でナチスの犯罪は、ドイツだけに限らず、全ての人間に対し、今もなお重い問いを投げかけていると思います。

若い世代は、前の世代が犯した罪について責任はありません。しかし、若い世代も、歴史から抜け出すことはできません。彼らは、なぜ他の国から批判されるのかについて、理由を知る必要があります。

前の世代が犯した罪を忘れずに記憶することは、全ての人間にとって、未来へ向けての義務の一つなのではないでしょうか。

ご清聴ありがとうございました。